「ぐだぐだ」の時代
「応仁の乱」の著者、呉座勇一氏は、「不透明感が強くなった現代の雰囲気に、英雄のいない、「ぐだぐだ」の応仁の乱がマッチしたのではないかと。」とコメントしている(中央公論2017/4)。
多くの時期は、「ぐだぐだ」とも言われている。
自分の現実を考えてみても、努力しなければいけないポイントは、いくつも重なってあり、しかも、どれも明確に白黒がつけられるものでもない。与えられた時間の中で、できるところまで進めているだけで、決着がついているものでもない。
こうした状態が普通だとすると、私たちは、どうしたらいいのだろうか?
壊滅的な状態も、いつかは訪れることもあるが、いつとも想定できない。このようなとき、明日起こる確率が明確でない(経験的には低い)にもかかわらず、それが起こることを前提として、明日を生きることはできないだろう。
しかし、明日起こる確率が明確でないからといって、それを全く無視することはできない。
正解は曖昧としていて、誰もそれが分からない中で、多くのポイントについて、時間の経過の内に、自分なりの査定をして、全体の折り合いを付けるということだろう。こうとしか言いようがない。
これは、現在の自分の立場に立って、そこから考えて、実行していくということで、現実主義と言っても良い。ころころ変わって節操がないように見えるが、大きく間違えない道だと思う。