個人事業主の姿は、歴史上、いろいろな形で見ることができる。

いつの時代も、権力者側は個々人を統制しようとするが、見逃された自由はある。
 すべての人を四六時中統制することはできないだろう。
その自由の中で、人は生きてきたと考えている。

古代豪族
8世紀後半から、富豪は歴史の表面に姿を見せ始める(日本の歴史「古代豪族」290頁)。
富豪は、買い集めた田地を、元の持ち主にそのまま耕させて小作料を取り立てる(間接経営)のではなく、自らが隷属農民を駆使した(直接経営)。

中世武士団のイエの独立性
鎌倉時代の不動産訴訟では、当事者同士の示談による和解(和与)が奨励されていた。
その基礎に横たわっているのは、当事者たちそれぞれが、1個のイエの支配者であり、小なりとはいえ1つの小宇宙・小国家の君主でもあったという中世社会の特質である。
鎌倉幕府では原則として主人と従者との対立する相論は受け付けない、という基本態度を守っていた。(「主従対論」は幕府の裁判所ではとりあげない)これは、幕府と御家人との関係で御家人側の自主性を認め、主人である度家人の従者にたいするイエ支配権を承認したものと見るのが正確。

近世町人
水田に稲を作る者の上に権力が築かれた歴史の中で、非農業者の歴史は、語られなかった。
士農工商は、もともと中国古代の身分秩序で、工商は、士農と区別された卑賤身分であった。しかし、科挙の受験資格について見ると、中世には、工商は、科挙の門が開かれており、士農工商の区分は早くから崩れていった。
日本でも、町人は、士農の下位に位置づけられた身分称呼であったが、近世に固められた身分秩序だった。
中世末に、都市の自由を作り出し、闊達な文化を築き上げた町衆があった(日本の歴史「町人」16頁)。

経営型農民(山本七平「渋沢栄一 近代の創造」37頁)
渋沢栄一(1840年生)は、農耕・養蚕のほか、藍玉の製造・販売を営む豪農の家に生れた。代官から御用金の申し付けを受けた際の侮辱・嘲笑に憤慨した話(17歳のとき)(青淵百話)が残されているが、封建制・身分制を笠に着て、経済力・能力に秀でたものに対して理不尽な行為をすることを、心から軽蔑した。
能力的に、武士階級に勝る力をつけた農民が出てきている。職業選択の自由がないものの、工業・商業の分野で工夫することができた。
封建制・身分制の中で、血縁により有利な立場に生れた者の中には、相手を侮辱・嘲笑する者もいる。しかし、血縁により有利な立場に生れたというだけで、その者が自分の力で獲得したものではないものを振り回しているだけで、優れた者とは言えない。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年09月03日 | Permalink