「くそっ」と思ったことがあるのは、必要なことだ。
1804年
渡邊崋山(登)(12才)にとって生涯忘れることができない1つの事件があった。
登は、日本橋付近を通行中、登と同年輩位の若君の大名行列を冒してしまった。このため、衆人環視の中で散々打たれたり蹴られたりの辱しめを受けた。このとき、登は、燃えるような発奮が起きた。(「崋山渡邊登」7頁)
1857年
渋沢栄一(1840年生)は、農耕・養蚕のほか、藍玉の製造・販売を営む豪農の家に生れた。代官から御用金の申し付けを受けた際の侮辱・嘲笑に憤慨した話(17歳のとき)(青淵百話)が残されているが、封建制・身分制を笠に着て、経済力・能力に秀でたものに対して理不尽な行為をすることを、心から軽蔑した。(山本七平「渋沢栄一 近代の創造」37頁)
これらは、封建時代に対する近代の感性が生じたとき、ともいえるだろう。
封建制・身分制の中で、血縁により有利な立場に生れた者の中には、相手を侮辱・嘲笑する者もいる。しかし、血縁により有利な立場に生れたというだけで、その者が自分の力で獲得したものではないものを振り回しているだけで、優れた者とは言えない。
こうしたことは、程度の差はあれ、現代でも起こっている。
自分で獲得したものでもないのに(親から譲り受けたと言うだけで)、その格差を誇る人は、どこにでもいる。