アーティストの考えるべき点
アートは、孤立した人をどのようにサポートできるのか?
アートは、自分の不安をどのように乗り越えさせるのか?
アーティストは、この点をよく考え、実行していかなければいけない。
アートは、孤立した人をどのようにサポートできるのか?
アートは、自分の不安をどのように乗り越えさせるのか?
アーティストは、この点をよく考え、実行していかなければいけない。
自分の領域を限定し、その中を整えていくことは、気持ちがいいものだ。
しかし、いろいろな人の人生を見ていると、そこからの展開力こそ、人生を豊かにする。
所有しない生き方が評価されている。
その方が経済的に合理的だという判断だ。
しかし、所有することを念頭に置いたとき、人は真剣になる。この意味を忘れてはいけないと思う。
美術作品を「美しい」と漫然と見ているだけではなく、どれを所有するかと真剣に悩むと、見方は違ってくる。
所有すれば、その作品を手元でじっくり見ることができるため、その作品に対する研究も違ってくる。
所有することが突破口となって、そこから広がることは多いと思う。
所有することは、大金持ちでなければ、その対象は限定される。それほど高価なものは、入手できない。
しかし、この制約は、逆に集中へと転化できる。
対象が限定されているため、研究の対象が絞られる。このため、深く研究することができる。
高価なものでなくとも、その良さは気がつく。その気がついた良さと、高価なものを見比べると、違いを判断できる。
1点でも所有すると、すべてが格段に違ってくる。
ドラッカーは、「日本美術の特色は、概念ではなく知覚、写実ではなくデザイン、幾何ではなくトポロジー、分析ではなく統合である」とする(「日本画の中の日本人」35頁)。
この表現自体が、繰り返しであり、描写的・分析的だと思うが、簡潔に言うならば、対置される西欧が、物事を分解し、詳細な説明を付け加えていくスタイルであるのに対して、日本は、存在するある事柄を、それ自体として把握するスタイルであるという意味であると思う。
この結果として、西欧の書籍は、分量が膨大になっていくのに対して、日本では、俳句、短歌など、分量を省く世界がある。
ドラッカーは、日本美術および日本人の特性として、両極性を指摘する。これは、両極が別々にあるのではなく、両立し、かつ、両立による緊張もあるとする。
このことは、人間であれ、物事であれ、その中に展開があるならば、一つのものとしては両極になると言うことだろうと思う。
この文章の展開も、日本人であると自覚する私は、統合的に書いていると思う。私は、書籍が膨大になること自体について、限られた人生の中で、好ましくないと考えている。膨大になればなるほど、知覚できないものになるとすら思う。少なくとも、実行の時間が奪われる。
美術品は、それほどたくさん購入することはできないのではないかと、最近考えている。
その人の経済力にかかる問題だと考える方もみえるかもしれないが、それだけではないと思う。購入しても保管しているだけということになりかねない。
美術品は、友人に近い存在であり、友人として付き合うためには、数に限界があると思われる。また、ひょっとすると、友人関係というよりも、結婚に近い関係かもしれない。重婚が認められるとしても、その数は、限定されるだろう。
美術品との関係は、結局、人間関係に近い。
友人として選び、付き合い、疎遠になることもあり、友人関係が途切れることもある。結婚に至ることもあり、離婚となることもある。
選ぶときは、よく研究もし、直感で判断することもあり、人間観察だけに終わることもある。
自分の好みがあいまいなときもあるだろうし、好みが変遷することもある。
好みではなく、実利を重視することもあるだろう。
しかし、人間関係が不可欠であることは、変らないだろう。
あるものを理解すれば、それで全てがまかなわれるということはない。
現実を観察しても、本を読んでも、疑問はどこからでも出てくる。
疑問は必ず決着をつけなければならないものでもない。必要に応じて調べ、一応の解決をしながら進めば良い。
しかし、そうは言っても、それだけでは混乱しか残らないかもしれない。そこで、1つの仮説として、私なりの整理、位置づけをまとめてみようと思う。
自分は自然の摂理の中で生きていると思う。この自然の摂理こそが神だと感ずる。
ただし、神が自分の外にいると考えるのではなく、自然の一部である自分も自然の摂理が及んでいるのであって、自分の中にも神は存すると考えている。つまり、自分の内も外も神の領域だと思っている。
自然の摂理というと、自然は科学の法則に従って統一的に定められた動きをしているのだから、全ては法則通りと考えてしまう。
しかし、私は、そのようには感じていない。自然の中にも何か意図を感ずるからである。
このように感ずるに至った経緯はC3のとおりだ。
中学1年生のときだったと思うが、学校の書道の授業で漢字1字を半紙に書き、表装する課題が出た。書道の先生は、当時の学校の校長先生にあたるポジションにあり、高名な方であり、現代書道家でもあったと思う。私は自宅で何十枚も書き(ひょっとしたら百枚以上)、1枚だけ、「これは!」というものができたのでそれを学校へ持参した。
私が選らんだ字は「耐」。自分でも普通は選ばない字だと思いながら、しかし、いろいろな字を書いてみた中で、墨のボリュームが出て、それでいて勢いもあり、字画のバランスがぎりぎりのところでとれた唯一のものだった。
私は、小学校の低学年から中学年にかけて、毎週日曜日、3年程、書道塾に通っており、それなりの訓練は受けていたので「耐」は自信作だった。
学校では、少人数のグループごとに、まず1点を選び、全体で10点ほどが教室の前に掲げられた記憶である。
私の自信作も選ばれ、選べられた後、皆がいろいろと意見を言った。
ところが意外なことに、私の自信作について評価する声は皆無であり、「道」だったと記憶しているが、同級生の書いた、少し大人っぽい作品に評価が集まり、それ以外に何点か評価された作品も私のものではなかった。私は、自分の意見を言えないままとなってしまった。
先生は、自分の意見は出されないまま授業は過ぎ、最後になって、私の作品「耐」は、なかなか良い旨をコメントされた。
自慢めいたことを書くのは私の意とするところではないが、先生は、本当に淡々と私の作品についてコメントされた。この結果、授業が終わってから、同級生も、「へー、そうなんだ。」と私の作品にコメントしてくれた。
この一連の流れは、私には衝撃だった。「評価を受けるということは、こういうことだ。」と感じとった。
世の中の素直で率直な評価、自分の信念、自分のサポーターなどが織りなす、硬直そうでいて、流動的な状況を身にしみて感じた。
本を読んだり、人の話を聞いて知見を得られたならば、すぐに実行しよう。
そのためには、知見が道具として利用できるように、どこかにまとめておく必要があるかもしれない。
実行することによって、世の中の理解が深められるだろう。そこからは、仮説が浮かび上がるかもしれない。
仮説は、それだけで十分に楽しめるものであるが、仮説からは、また別の知見が得られるだろう。
人生は、このように循環するものだと思う。
本書も、自分の生活の中で考えさせられたことがどこに関連するかを確認し、そこに戻り、補充しながら成長させる必要がある。
楽しみとしての読書を否定しないが、現実の生活が重要であって、そのための読書だと考えている。
したがって、本を読むために多大な時間を費やすことは好ましくないと思う。自分の作る本もコンパクトにしたい。