C16 情報・価値観のあふれる世界
私は、性格として、収集し、記録し、整理してきた。その資料を見てもらうだけでも、情報・価値観のあふれる世界を実感してもらえるだろうと思う。
まして、私の手元にある資料に限定しなければ、無限にあふれていると言っていいだろう。
これまでの社会は、あふれる情報・価値観を整理し、体系化してきたと言える。その体系すら、全てを理解し、味わうことは不可能だ。
そこでガイドブックが必要になるだろう。
私は、性格として、収集し、記録し、整理してきた。その資料を見てもらうだけでも、情報・価値観のあふれる世界を実感してもらえるだろうと思う。
まして、私の手元にある資料に限定しなければ、無限にあふれていると言っていいだろう。
これまでの社会は、あふれる情報・価値観を整理し、体系化してきたと言える。その体系すら、全てを理解し、味わうことは不可能だ。
そこでガイドブックが必要になるだろう。
資料・データを取得した場合、その場でただちに整理・保管するべきかどうかを判断して、捨てるものはすぐ捨てるという生き方を薦める本が多いように思う。確かに、整理・保管の必要がないとただちに判断できれば、それは捨てて良いだろう。
しかし、証拠書類として保管しなければいけないものも多く、組織として取り組む場合は、自分だけで決めがたい場合もある。また、その資料・データ1枚だけでは何もわからないが、ある一定期間蓄積することにより変化がわかるという場合もある。さらに、自分の興味の対象となるかもしれないと思うものも多い。
したがって、整理・保管の体系は、自分だけの理解で作るのではなく、グループ全体の理解を得て作り上げるべきだろう。また、保管期間を想定する必要もある。さらに、個人的な必要性も取り込む必要がある。
まずは、こうした整理・保管の体系を明確に作るべきだろう。保管するべき資料・データは、必ずどこかに位置づけられる必要がある。しかし、保管期間を設定し、期間を経過したものは捨てやすい区分とする必要がある。
次に、このような体系を作ってみると、思わぬスペースが必要という場合もあるだろうが、全体の量が明確になり、保管期間を決めれば、そこそこの量となることがわかる。
スペースに限界があるならば、その限界となる前に処分するルールを作れば良いだけのことだと思われる。
このように体系が安定して運営されると、落ち着いて考えることができるようになる。また、体系の修正を考えることにより、新しい分野は何かをつかむことができるようになると思われる。
1 時間の経過とともに知見・資料が出てくる場合、それを集約する場所を定める必要がある。
その場所を「マスター」を付けて明確にする。(例.マスターデータ、マスターファイルなど)
集約する場所を定めないと、蓄積ができず、成果に結びつかない危険がある。
2 集約する場所は、自由に組み替えられる場所である必要がある。
集約する場所では、知見・資料を並べ替え、全体の体系を探す作業が求められる。
この作業を行うことにより、その分野の理解が深められ、皆の利用できる体系が見つけ出されることになる。
したがって、クリアーポケット(文書を入れる袋タイプの透明ホルダー)がとじられたファイルは、資料の並び方が固定されたものに限定して利用すべきである。
3 集約の中から何か成果物を抽出する場合でも、知見・資料を集約する場所と区分し、集約の場所は継続する。
抽出物が独り歩きすると、集約の場所が分散し、二重の作業が必要となったり、一本化されない二重の成果物となってしまう危険がある。
現実に満足できるうちは、謳歌すれば良いが、満足できなくなったときに、それにどのように立ち向かうかという問題が生ずる。
「寺詣でが本来の信仰の意義を失って、ピクニックのような行楽になったのは、江戸時代からであろうが、その起源はさらに古くからあるらしい。(中略)こういう態度で寺院や僧侶に接するのは、一般に、日本人が宗教的体験を内面的実質的に求めようとせずに、形式のうえで把握するという態度から来ているように思われる。」(日本の仏教、渡辺照宏 135頁)。
しかし、私には、このような「形式主義」に理由を求めるよりも、日本人の現世志向に理由があると思える。
歴史的に浄土信仰があったとされる。平等院鳳凰堂などが、その例として示されるが、本当に来世のことに重点を置いていたとは思われない。
まして、貴族でない一般の人間にとっては、現世のほうが重要であったと思われる。
このことは、蓮如の御文章(1帖目8通、1帖目5通)からもうかがわれる。
人々が現世志向となったことにより、宗教も「現世志向」となる。
この点に関して、「二度と再び出会うことのないこの人生を、死んだらしまいとして終えるか、死んでしまいにならぬいのちを生きるかでは、同じ人生でも雲泥の開きがあります。」との考え方がある(「御文章」、宇野行信著、49頁)。
宇野行信の考え方は、次のとおりである(「御文章」、宇野行信著、47頁)。人間は、心の片すみで死んだらしまいと思いつつも、死んでいけぬ思いがあるとする。これに対して、蓮如上人は、死んでしまいにならぬいのちが恵まれ、この世の縁尽きぬれば、死にとうないまんまで死んで往けます、という場を生きておられるとする。自分自身が自分を見捨てても、見捨てることはできないとはたらいてくださるお方(阿弥陀さま)に出遇えたら、死にとうないまんまのこの身が、死んで往けるとする。この考え方は、理解しにくい。
他力の考え方を表現するとこうなるのだろうが、自力か他力かの違いが、現実の今の命・生活にどのように影響するかを明確にするべきだろう。
現世志向の立場から、宗教家を揶揄することは、当然にありうる。このことは世界共通だと思われるが、日本では強いのではないかと考えられる。
現代の多くの人間は、「浄土に生まれる」ことを中心に願っているとは思えない。そもそも浄土が本当にあるとは考えていない。死んだらそれで終わりと考えている。
このことは、現代だけでなく、昔からであるように思われる。
これは、浄土が本当にあるのかという点について、宗教家は明確な納得できる説明ができていないことを意味すると思われる(「浄土真宗必携」本願寺出版社86頁)。
浄土は、来世にあるのではなく、今、現世に生まれている自分の心の中に作られる。
輪廻の思想すら、今、現世に生きている自分の考える生命観、現象観である。
健気であることは、大事な性格だと思う。
・ ベートーベンの音楽は、健気に生きることを肯定する。(三枝成彰、日経新聞09/12/29)
健気 ― 勇ましいさま、かいがいしいさま(甲斐甲斐しい)、
甲斐甲斐しさ ― きびきびとしている、まめやか(忠実やか)、はたらきぶりの親切なさま
・ 少年伊藤博文は、困難が起こっても努力すれば必ず何とかなる、という楽天的な人生観(中略)を育成していったと思われる。(「伊藤博文」伊藤文雄P.25)
・ 空海の交渉力の裏付けとして、健気さを感ずる。
パールバック「大地」の阿蘭にも同様に感ずる。
吉田松陰は、海外渡航に失敗し、獄中の身となったが、安政2年釈放され、旧宅で謹慎したという。
なぜ釈放されたのか、その事情には、私は詳しくない。
吉田松陰のその後の業績を考えると、許されたことは、歴史的に大きな意味があったといえる。
現代の世相は、責任追及のために攻撃するばかりで、許しという面が報じられることは少なくなってしまったと思う。許しを期待しにくい時代として生きていくしかないと思うが、許しについては、良く考察される必要があると思われる。