一輪挿しの効用
花を一輪挿しに入れると、近くで見ることができるため、より花そのものに接することができる。
これは、花を情報化して観念的にとらえていたところから、身近なものとしてとらえるところへと変化させることでもある。
花を一輪挿しに入れると、近くで見ることができるため、より花そのものに接することができる。
これは、花を情報化して観念的にとらえていたところから、身近なものとしてとらえるところへと変化させることでもある。
陶磁器の展示を見に行くと、作品とその横に作者の略歴等が書かれた小さな紙があることがある。
このような展示は、これまでいろいろとなされてきたところだが、こうした「もの」と紙との関連付けをどのように行うのかは、大事なところではないかと思う。
説明の紙は小さくて、ファイルに綴じることができないこともあり、ネット上に情報を置くことは重要だと思われる。
しかし、ネット上にばらばらとある情報を組み合わせて、新しい視点をどのように見つけるかという作業になると、ものとなった紙の媒体は重要だと思う。
ドラッカーは、「日本美術の特色は、概念ではなく知覚、写実ではなくデザイン、幾何ではなくトポロジー、分析ではなく統合である」とする(「日本画の中の日本人」35頁)。
簡潔に言うならば、対置される西欧が、物事を分解し、詳細な説明を付け加えていくスタイルであるのに対して、日本は、存在するある事柄を、それ自体として把握するスタイルであるという意味であると思う。
概念/知覚
写実/デザイン
幾何/トポロジー
分析/統合
物事を分解し、詳細な説明を付け加えていくスタイル/存在するある事柄を、それ自体として把握するスタイル
デカルト/スピノザ
西欧/日本
PDCAサイクル/[知覚 - 判断 - 表現]を統合した進め方
論理的・理性的スキル/直感的・感性的スキル
古い日本家屋をリフォームするにあたって、ふすまの張替えが必要となった。
これまでふすま紙を全体として眺めたことはなかった。
手漉きか機械漉きか
色合い
肌触り
模様
絵
昔からのものと現代的なもの
日本でこれまで積み重ねられてきたものの、大雑把でも、その集大成を見ると、日本を考えることになる。
春日大社で見た本朱塗りなどを思い出す。
文章は、概念を組み立てたもの。
読むのに時間がかかる。
絵画・写真は、統合された知恵。
一瞬で全体を見ることができるが、意味の理解ができているかどうかは、別問題として残る。
西洋と日本の違いに似たところがある。
文章は、絵画・写真を見るように、一瞬で全体を見るようにとらえるべきだろう。
絵画・写真は、文章を読むように、概念で組み立ててみてもとらえるべきだろう。
地下鉄では、8割以上の人がスマホとにらめっこしている。
歩きながら、スマホを見ている人もいる。
スマホが映し出す世界は、刺激的で、想像力に富むものなのかもしれない。
しかし、スマホを見ながら歩く人のそばに咲く植物は、かえりみられない。
現実のものが持つ不思議さ・美しさが、直接、眺められることもない。
林武のある薔薇の絵は、もともとは古径額に入れられていたものであったが、あるとき手彫りの金色の額に移された。
しかし、手彫りの金色の額に入れると、さすがに林武の薔薇の絵も抑えられたものになる。
このため、絵の所有者は、もとの古径額に戻した方が良いと考えた。
絵の所有者は、良い絵には、それに見合う衣装が必要との考え方から額を選んでいる。
これに対して、絵そのものを見れば良いのではないかという考え方もあるだろう。
額は、基本的には、外からの衝撃から絵を守るものだとも思える。
また、大きな重い額は、絵を飾るときに負担になる。
そこで、例えば、アクリルケースや白木の額に、林武の薔薇の絵を入れることもありうるのではないかと思う。
そうすれば、林武の薔薇そのものを味わうことができる。
この考え方は、絵の専門家や額を扱っている方には、とんでもないものと思われるかもしれないが、現在の私の感覚に近いものだ。
この違いは、どこにあるのかを、売れる絵(仮)展(企画発案者 愛知県芸芸術学4年 竹中愛咲子さん)で取り上げられていた。
「「売り絵」と「売れる絵」は違います。
「売れる絵」というのは「売り絵」とは全く別で、どんなテーマであろうと、どんな時代や環境であろうと売れる作品です。「売れる絵」を描きなさいというと、世間のニーズに合わせたいわゆる「売り絵」を描けと思われる人もいますが、「売れる絵」というのは作家の個性を生かしながらアート商品としても「売れる絵」ということです。そのことを今回、学生の皆様に考えて制作をしてみていただきたいと思い、企画しました。」
売れる絵(仮)展は、作家に対して、考える機会を持ってもらおうとするものである。したがって、作る立場の目線であると思う。もう少し、コレクター目線で考えるとどうだろうか?
売れる絵は、客観的な結果であり、市場の問題なのに対して、売り絵は、作家の思惑である。
美術作家の場合、我が道を行く武勇伝が、実際以上に語られるため、どうしても客観性・市場性がなおざりにされるきらいがあると思う。経済の世界でよく言われる言葉に、「市場との対話」がある。私は、美術作家も、市場との対話を少しは考えた方が良いと考えている。
しかし、美術作家にとっての市場との対話は、どのようにされるべきかは、難しい問題だろう。人気作家のまねをすることではないだろう。市場との対話は、意図してできるものでもないのかもしれない。そうすると、市場との対話など考えないで、わが道を行けという考え方にもなってしまうだろう。
少なくとも、美術作家も、購入者がいるのだから、その人たちとのコミュニケーションはとるべきだろう。私は、これは当たり前のことだと思うが、これが十分なされているとは思えないことが、多くある。特に、現代美術は、その面が強いと感じている。
作品を保管するためには、スペースが必要であり、相当の注意も要する。この点で、コレクターにとって、収集できる作品数の限界があるだろう。
収集しても、それを展示する機会は、意外に少ないと感ずる。自らの関心の程度にもよるだろうし、作品の大きさから来る手間も影響する。
流行・ランキングの変化から、作品も盛衰があるだろう。自らの関心の変化もある。
プライマリーで購入したものは、なかなか売却できないものだろうが、投資家の観点に立ってしまえば、数字の評価は歴然としている。
コレクターは、こうした状況の中で、作品を売却することになる。売却することにより、コレクターは、次の展開を考えることになる。
世の中では、作品を購入する人は、ごくわずかのようだ。これは経済的な余裕の問題でもあるが、むしろコレクターの姿が知られていないことが原因だろう。大コレクターは別として、普通の人であるコレクターの姿が知られていないと思う。特に、作品を売却することが、知られていないと思う。この点が、日本のアート界の問題だろう。
巡礼としては、四国88ヵ所遍路が有名だが、西国33所観音巡礼など、各地にある。多くは、弘法大師、観世音菩薩にゆかりのあるお寺を巡るものだ。
私も、少し巡礼をしてみて思うところは、宗教的な意味も中心にあるのだろうが、芸術、建築を巡る旅の意味合いが大きいという点だ。また、お寺だけでなく、お寺からお寺への道すがら、お茶、食べ物から史跡、旅館まで、色々な文化に接することになるという点だ。目的のお寺だけ巡るというのではなく、地元の人の話も聞きながら、少し余裕を持って周辺にも足を伸ばしてみるのが良いと思う。
こうした点で、美術館を巡ることも、同じような意味合いがあると思う。
美術品と美術館の関係は、論ずれば色々あるだろうが、両方を見ることになるだろう。
振り返れば、色々な美術館を訪れたが、その結果得られる、全体を見た把握・印象ができてくるように思う。それは何かを、少し考え、表現したいと思うが、何かがあることは確かだと思う。
自分にとっての「現代の巡礼」を考え、実行してみても良いのではないかと思う。