C2(3) 頭でっかち
私は、頭でっかちと言われようが、感性とは別に、頭でも作品を見ていこうと考えている。それは、どこまでも客観性を求めたいと思うからである。
分析の道具を見つけ、分析ができたから、それでどうだということもないように思うが、客観的なコメントがなされることにより、何らかの共通基盤ができることも何か意味があるように考えている。
私は、頭でっかちと言われようが、感性とは別に、頭でも作品を見ていこうと考えている。それは、どこまでも客観性を求めたいと思うからである。
分析の道具を見つけ、分析ができたから、それでどうだということもないように思うが、客観的なコメントがなされることにより、何らかの共通基盤ができることも何か意味があるように考えている。
2011年7月30日、アートフェア東京の会場を回り、考えた。
感性で選ぶという意味が、単に好きか嫌いかだけであれば、可能かもしれない。「私は、これが好きなんです。」と言われれば、「はい、そうですか。」と答えざるをえない。主観の問題には、踏み込むにしても限界がある。
しかし、アートをもう少し客観的な基準で選べないだろうかと思う。この点が、ここでの議論のポイントである。
アートフェアなどで多くの現代アートの作品に出会うとき、どれを購入するかという観点で見ると、私は迷ってしまう。
自分の感性を信じるならば、それに従って選ぶことができるのかもしれないが、そのときは気に入っても、未来もそうである保証はないように思う。
逆に、市場での評価を気にすると、まずは自分の感性を横において、市場で評価される作品の良さをどこかに見出そうとする。自分の感性とは異なる作品でも、何度か出会ううちになじんでくることがあるから、自分の感性だけで決めるというのも、狭い了見のように思う。
多くの作品を見て、また、気になった作品の周辺を調べ、さらに作家についてその全体をとらえようとするうちに、やっと1つの作品についての自分なりのコメントができるように思う。コメントを考え、コメントをするうちに、自分の感性というものが見えてくるかもしれない。
感性というものは、自分のこれまでの経験や、積極的な学習の積み重ねの上に維持されるものであり、客観的に記述する努力を求められるものだと考えている。
人(人々)が生きるか死ぬかが問題となっている国、場面を考えると、芸術の差異は、取るに足りないもののようにも感ずる。
人が生きていく上での大きな枠組は、政治、経済上のシステムが作るものであろう。その中で芸術家が追求するものは、あまりに細かな違いのようにも思える。
しかし、細かな違いであっても、時間とともに大きな変化がもたらされることは、実感できることと思う。「神は細部に宿る」という言葉は、いろいろな意味を汲みとることができる言葉だと思うが、スタート時点の細部の違いがもつ意味を深く考えるべきことを教えるものだと思う。
1億÷12÷3.3=252525・・・・・・
作者が表現しようとしたことに、どんな意味があるのか。
人間がそれぞれ個人として尊重されるように、作者もそれぞれ尊重される。
作者が表現しようとしたことの意味は、受け手との関係で、様々な評価は可能だろう。
(1)人物画
ハプスブルグ家の財宝を見ても、一族の人物画は多く描かれている。これは自己を保存し、記録として残したいという望みからだろう。
しかし、そのような望みは、写真技術によって安価に、手軽に実現できるようになった。
絵画は、写真の登場によって、その意義を移さざるをえなかったことは明らかだろう。
(2)自然(たとえば樹木)を描く人は、その中に何がしかの人間を超えるものを感じ、そのことを表現していることが多いと考える。この「人間を超えるもの」は神と言って良いだろう。八百万の神を信ずる人であれば、自然の中には神が多数宿っていると感ずるだろう(一神教の世界の人は、どのように感ずるのか知らないが。)。
(3)具象を対象としているからと言って、作者が表現したかったことが、その具象にあるのではないことがある。
この点は、作者からの説明がなければ通常はわからないことだろう。
(4)絵画では、インパクトが必要か。
インパクトのための逸脱、人間離れした技巧、細密描写など、人は驚き、引き付けられる。その点では、インパクトがあった方が良いのだろう。しかし、インパクトのためのインパクトは、それを続けるとき、行き詰まりとなって感じることになる。
O JUN(1956ー)、長谷川繁(1963ー)、ジャンボスズキ(Jumbo Suzuki)(1980ー)の作品には、共通項がある。
フラットに具象を置くものの、その意味はただちに理解できず、その雰囲気を味わうことになる。
人は、現世において希望がもてない場合、来世はどうなると考える傾向があるように思われる。これは、宗教的な説明があるために、そのように考える傾向があるのか、そのように考えなければ人は生きていけないために、宗教的にもそれに沿った説明をするからなのか、このあたりは不明であるが、宗教と来世観は結びついたものがある。
しかし、来世がどうなるかは確認のしようがないのであるから、現世志向を徹底するならば、今が大事であると言うべきだろう。
「この世をおもしろおかしく楽しむのだ。」という考え方は、刹那的な響きがあるが、人間のたくましさであるように思われる。
「天国でまた会おう。」とか、「今頃は、天国で会っている。」とか、いろいろな言い方があるが、どれもたくましさには欠けるのではないかとも思う。
師とは直接の面識があった方が、良いだろうとは思う。
特に、自分が未熟な場合は、直接の面識があり、コミュニケーションの中で気づきを得ることが必要だろう。
しかし、時空を超えて、師を見つけることも可能である。
特に、ブログなどで個人の発言が容易になり、発言を知る中で、師と考えることも可能である。
選択は、偶然であったり、縁であったりする。
自分の仕事、趣味、配偶者、友などなど、全ての可能性を検討して選択することは、ほとんど不可能だろう。
大事なことは、選択してから、また、選択の進行中に、それをいかに深めるかにあると思われる。
徳永英明のコンサートに先日出かけ、レイニーブルーを初めて聴き、良いなあと思い、車の中でも聴いている。作詞は、大木誠。
別れを扱った歌詞であるが、世の中にはいろいろな別れがあって、人それぞれに別れを想い起こすのだろう。
レイニーブルーという言葉が、どの程度の落ち込んだ気持ちを表わしているのか詳しくないが、終わりの熱唱を聞くと、大きなもののようにも思える。
歌詞には、「帰り道」、「交差点」、「あなたの白い車」などがあり、その連想や、終わりの熱唱の感覚からは、事故死という別れもありうるのだろうかと考えてしまうが、歌詞を正確に理解するならば、それは誤りだろう。「事故死だったら、普通、あのような思いは抱かない。あたりまえじゃない。」と言われそうだ。
ある具体的な別れが、歌詞になることにより、抽象化が始まる。抽象化の中では、誤解も生まれる。抽象化により、いろいろな人の思いを乗せることができて、広がりとなる。広がりの中から、多くの人は、自分の「具体」へと戻ることもあるだろう。
具体と抽象を自由に行き来する中で、客観視もできるだろう。
美術の世界の、具体と抽象にも共通するものではないかと考えている。