C1(9) 抽象化のあり方
(1)省略へと向かう抽象・・・ミニマル・アート、コンセプチュアル・アート
(2)現実データ(具象)で構成される抽象・・・モランディ、アペルとの対話
(1)省略へと向かう抽象・・・ミニマル・アート、コンセプチュアル・アート
(2)現実データ(具象)で構成される抽象・・・モランディ、アペルとの対話
スポーツでは、例えばフィギュアスケートの採点方法が変更になることにより、選手にとって有利不利に影響する。したがって、ルールの設定の仕方は重要な問題であることは、明らかだろう。スポーツの場合、参加者はルールに基づき競技することは、当然の前提であるため、ルールの設定が重要であることは、わかりやすい。
経済行為についても、ルールの設定があり、その設定方法が利益等に影響するため重要であることは明らかだろう。金融取引に対する規制など、報道されているところである。
これに対して、現代美術の世界はどうか。村上隆さんの指摘では、ルールがあり、それを踏まえる必要があるとのことである。私は、美術の世界に詳しいものではないが、フォーマリズムが、モダニズム芸術の規範とも言えたことや、アメリカの抽象表現主義から、ミニマル・アートやコンセプチュアル・アートへの流れを見ると、ルールというべきものがあるのだと思う。
私は、世の中の「競い」は、基本的にはルールを踏まえたものであり、そのルールの設定をめぐるものであると考えている。
現代美術の世界でも同様ではないかと思う。
ポストモダン芸術の中で、アレゴリー、パスティーシュ、アプロプリエイション、シミュレーションなどは、広い意味で「引用」である。
現代美術での引用は、科学論文の世界で引用がなされることに似ている。現代美術は、科学論文のようになってしまった。
内部/外部、自己/他者、善/悪、男/女など、古代ギリシア以来の西洋形而上学は、二項対立を確立してきた。
その二項対立を解消し、そこに潜む欲望を指摘するものとして、1960年代半ばころ、フランスの思想家ジャック・デリダは、「脱構築」という思想を提唱した。
しかし、日本では、二項対立という考え方は決定的なものではないと思われる。
日本人が西欧人のように絵画を描いても、西欧人の眼からは、違和感を感ずるか、無理をしていると思われるだけだろう。したがって、日本人によって描かれた西欧人の描くような絵画は、国際性があるとはいえない。
逆に、日本人のテイストがあった方が、国際的には評価されるだろう。
美術作家は、繰り返しの中から道を見つける。
これは、美術に限らず、どの世界でも言えることだろう。
繰り返しの中で気がつく差異が、本質の把握へとつながる面がある。
また、繰り返しの中で、外部の人から作家としての理解が得られる面もある。(これは、1つの作品のみで作家を理解することは困難だという前提に立つ。1つの作品のみでも、作品としての理解はできるという考え方も当然にあるだろうが、私の関心は、作家にあるということかもしれない。)
赤塚一三の意見では、対象物・自然への取組みと、自分の中の成生物とは、かみ合わされる必要があるという意見を聞いた。そうすることにより、自然の中にある豊かな情報を生かすことができるという。
山内亮典は、雑誌などの写真を基にして油絵を描く。その理由は、現実の場面(自然)から描く(写生する)と情報量が多すぎて自分では収拾がつかないこと、収拾の努力をしているとその構図から自由に展開することが制約されてしまうこと、にあるということだった。
ゲルハルト・リヒターも写真から油彩をつくる作家であるが、リヒターが写真をほぼそのまま絵画とするのに対し、山内は、写真からの展開を行う点で異なるということだった。
描くべきものが何かはっきりつかんでいれば、後は、どのような手法によるかの問題となる。
描くべきものが何かはっきりつかんでいないと、描きながら探し、どこかでつじつま合わせをすることになる。
また、どこかからいくつかの材料を引っぱってきて、それをアレンジすると、それは描くべきものなのか手法なのかはっきりしなくなるだろう。
描くべきものをどのようにつかむかは、体感であったり、思考であったり、人それぞれであろう。したがって方式化しにくいと思われるが、材料を客観的に並べ、描くべきものをつかむ道筋を明確にするべきと思う。
ゲルハルト・リヒターの「アトラス」は、こうした道筋を明らかにするものと考える。
「なぜ、これがアートなの?」(アメリア・アレナス著)の中で、大プリニウスが書いた自然に関する本のなかではじめて紹介された、ラブ・ストーリーが示されている(189頁)。
「昔々コリントに、陶工の父をもつひとりの娘がいました。二度と再び会うことのできない男と一夜をともにした彼女は、その夜、口に出してはいえないよう衝動に駆られて、壁に映った恋人の影を線でなぞりました。翌日、娘の絶望的な思いを知った父は、その輪郭線に粘土を埋め込んだのです。こうして、はじめての彫刻がつくられました。」
アレナスは、このコリントの娘の物語を、ソフィ・カルの美術作品「盲目の人々」を例にとり、アートの本質を語るアレゴリー(寓話)として、とらえている(193頁)。
「アートにたいする私たちの反応もまた、この作品(ソフィ・カルの作品)が語るように、私たちが感じることと想像することの、そして私たちが知っていることと、知っているつもり(、、、)のこととの、気ままな組み合わせの結果だからである。それは知覚と期待、閃く直感と「美しき誤解」の絡み合った迷路。美術作品からどんな感動を得ようとも、それはこういった錯綜したプロセスから生まれるものなのだ。それはアーティストが「生」や「現実」のまわりの影をなぞって描いた微かな輪郭を、私たちが自らのイメージで埋めていく作業なのである。」
美術作品を見ることの意味を具体的にとらえていると思う。
絵合の巻を読んだとき、紫式部の時代から、互いに名画の数々を出して優劣をつけ、対戦するという遊びが行なわれていたことは、驚きであった。しかし、現代においても、富裕層がサロンにおいて、見せびらかすように絵画を見てもらうことはあるようだから、昔から変わっていないのかもしれない。
村上隆は、アートは基本的に大金持ちのためのものと断じている。これも、この伝統に基づく意見だろう。