B2 オリジナルは、どこに意味があるのか。
基本的には、この世に1つしかないことに意味を見出すのだと思われる。それは、1人占めしたいという心情に発するものであろう。
アーティストが直接に触れて作ったものであり、「劣化することに意味がある」とは、普通考えにくいが、そのように考えることもできなくはない。
基本的には、この世に1つしかないことに意味を見出すのだと思われる。それは、1人占めしたいという心情に発するものであろう。
アーティストが直接に触れて作ったものであり、「劣化することに意味がある」とは、普通考えにくいが、そのように考えることもできなくはない。
絵画の世界では、オリジナル(真筆)に価値をおいているように思われる。オリジナルとコピー(写真も含めて)との関係については、いろいろな議論のあるところだと聞く。
オリジナルを物として見た場合、それには価値があると見るべきなのだと思われるが、オリジナルは、最終的には滅失する運命にある。日本の古来からの美術品の多くがそうであるように、色は落ち、剥離し、紙は破れる。黴も生ずる。そのとき、オリジナルはどのような価値となるのだろうか。
物としての美術品としてみると、価値が落ちたと見るべきなのだろうか。この点について、オリジナルが作り出した世界が重要であって、物としての保管に重要な価値をおくべきではないように感じている。
この立場からは、コピーであってもその作り出す世界に差がなければオリジナルと同様の価値と見てよいと考えることになるのだろう。
世界は、全ての可能性が集積された結果として、存在する。時間は一方向に流れるイメージではなく、2次元的には360度全ての方向に、3次元的には想定される球面体の全ての方向に、4次元的には歴史が無限に重なるように存在する。
その形は、多世界観のイメージと表現するしかない。
いろいろな温泉に行くうちに、昔から湯治があることを知った。医学的な効能がどれほどかはわからないが、体感として、気分的には良いだろうと思う。
2010年9月23日から26日まで、増富温泉不老閣の湯治棟に、3泊したのが初めての長期宿泊であった(長期と言っても3泊だけど)。仕事をかかえる人間にとっては、なかなか長期休暇はとりにくい。少なくとも気持ちの点でとりにくい。
食事は、非常食として買っていたマジックライスが賞味期限が切れたため、それを用意して出かけ、途中、温泉への山道に入る手前にあった食品スーパーで購入したもの(キムチ、もずく、ヨーグルト、チーズなど)を少しずつ食べた。
不老閣では、天然岩風呂に1日3回程度は出向き(説明書には、放射線が強いので1日1回の入浴と記載されていたが、皆さん何回も入っていた)、また、宿の周辺も散策した。近くの金泉湯は閉鎖されていた。
湯治は、おもしろかったが、3泊が限度だったかもしれない。何もしないで湯治だけに専念することは、ある程度予想していたとおり、なかなかむつかしい。
しかし、海外旅行であれば、1週間程度、仕事から離れることは、これまでもあったのだから、湯治を転泊としたり、ある程度の距離の散歩を組み合わせると、飽きないでできるかもしれない。
温泉が好きになるきっかけは、榊原温泉の源泉風呂だった。ぬるい温度のため、ゆっくり入ることができ、温泉の香りを楽しむことができた。
もう1つのきっかけは、一般社団法人日本秘湯を守る会を知り、宿泊するたびにスタンプ帳に押印してもらうことであった。いろいろな個性がある温泉があることを知り、各地に出かけることにより、温泉を知ることができた。
これ以外にも、「カラー版 温泉教授の日本全国温泉ガイド」(松田忠徳著)、「温泉旅館格付ガイド」(松田忠徳著)などを参考にして、宿泊、訪問するたびに、そこをラインマーカーでチェックすることも各地に出かけるきっかけとなった。私は、基本的に、同じ場所に何回も行くよりも、新しい所へ行きたい性分であり、ガイドブックに紹介された所へは、ある程度の数は行ってみたいと思う。ただし、全制覇することを目的とするものではないから、ある程度の割合になれば良い。
ある程度の割合になることにより、自分の到達度が大体どれ位かわかれば良いのである。
移動のための道具として大いに役立った。
パワースポットという言葉を知ったのは、分杭峠の話を聞いてからである。
古くから不思議な話は各地に伝えられており、そこはパワースポットとして取り上げられる。また、そもそも神社、仏閣は、不思議なエネルギーのある所であり、パワースポットと考えることもできる。
したがって、パワースポットは日本全国に多く存することとなる。
パワースポットで何かを感ずるかと言われれば、明確なものはないと思う。しかし、好奇心から行ってみようという気持ちはあり、出向く原動力となったといえる。
日本語では、「○○(ある事柄)が尊重されている。」という言い方がなされることがあるが、英語では、「□□(主体)が○○を尊重する。」と書くことになるだろう。
このことの意味は、英語では、□□(主体)と○○(ある事柄)との対応関係が明確であるのに対し、日本語では、○○(ある事柄)が前に出てきてしまい、□□(主体)が場合によっては不明確になることが生じるということだろう。
日本語の場合でも、よく読めば、□□(主体)は明確であるという主張はありうると思うが、主体が拡散したり、ずれたり、誤解されることがありうるだろう。日本語では、主体の可変性が高く、このために文章において抽象化される傾向があると思う。
絵は瞬時に見ることができる反面、瞬時で見たと終わらせられる面がある。
絵を見て、何か「はっ」とさせられる点があるとよく見ることになる。
絵を見る前に、この絵には何かあるという予備知識があったり、単に有名であるという場合にもよく見ることになる。
よく見れば、その絵がどんなものでも(と思うが)、何かしら印象に残るものである。したがって、作家は、よく見てもらえるような工夫が必要だろう。
直島においても、多数の絵画を見てきたが、ジェニファー・バートレットの「黄色と黒のボート」が印象に残っている。
2011/7/3、ハラミュージアムアークで、開架式収蔵庫を見た。
美術品の保管には、かなりのスペースが必要であることを実感した。研究者用に開架式としているとのことであったが、贅沢な作りだと思う。
しかし、布でおおい、段ボール箱に収納すると、見るだけでも多くの時間を要するから、開架式は意味があると思う。
また、現代美術作品は大型化し、額装も困難なのだろうと思う。
美術館は、展示を意識した空間である。