美術の作品は、自分の思った通りに作れば良いのか?
日本の美術教育は、自分で描く・作ることが中心となっている。
これに対して、世界では語ることが中心であると言う指摘がある。「世界視点で読む企業戦略とアート」上坂真人223頁
この影響があるためか、作家は自分の感性で作品を作れば良いという感覚が日本にはあるように思われる。
しかし、日本でも、気がついている作家は、世界レベルで評価を受けるためには、世界の流れを踏まえ、日本の作品の位置づけも考えているように思われる。
日本の美術教育は、自分で描く・作ることが中心となっている。
これに対して、世界では語ることが中心であると言う指摘がある。「世界視点で読む企業戦略とアート」上坂真人223頁
この影響があるためか、作家は自分の感性で作品を作れば良いという感覚が日本にはあるように思われる。
しかし、日本でも、気がついている作家は、世界レベルで評価を受けるためには、世界の流れを踏まえ、日本の作品の位置づけも考えているように思われる。
アートの評論家系の人が書いた文章は、抽象に関して言えば、形態にとらわれた表面的なもののように感じる。
なぜ抽象なのかというところが、とらえきれていないと思われる。
このような点を踏まえると、作家は、自分の作品について、何らかのコメントをする必要がある。
アーティストが加わることで、始まりは小さなコミュニティーであっても、それが展開していくように感じているようだ。
しかし、そもそもどのようなアーティストにそのような力があるといえるだろうか?
それは、既にある程度評価が定まり、人気のあるアーティストであって、そうでない人が始めても、おそらく何の影響も及ぼさないであろうと思う。
アーティストは、もっと多くの人へ接近する方法を考えなければならず、その行動量が少なすぎると思われる。
その原因は、アーティストは、自分1人でできることに依存しすぎているからである。しかも、自分の考え方が、特異であって、人に簡単に理解されないことが分かっていないことも多い。
したがって、アーティストは、自分のやり方を根本的に変えなければいけないだろう。
自分にとっての明確なライバルを持つことは、非常に重要だ。
明確なライバルがあり、その人との比較を通じて、自分に欠けたものを明確に意識して、ライバルに遅れないように努力することが重要だ。
ライバルを選ぶときも、自分の身近なライバルだけでなく、すでに世界的・日本的に評価されている人も想定すると良い。
美術品を原価でとらえようとすると、材料費は知れたものであるから、入手費用が中心となる。
しかし、美術品の評価は、人により大きく異なるし、時世の影響も大きい。
このため、入手費用を原価として頭に置き、前の持ち主がいくらで取得したかまで考え始めると、何も買えなくなってきてしまうだろう。
美術品は、自分で評価して、購入するしかないものだと考えるべきだろう。
美術作品の変化を強く感ずる。
カウズは、ストリート系の現代美術作家だが、ディオールとコラボレーションして、2体のぬいぐるみ(各500体)を作っている。
ぬいぐるみは、コンパニオンの変形バージョンだと思われるが、平面ではなく、ぬいぐるみであり、触ることができる。
YouTubeで、ヒカキンが2体を取り出し、両手に持つところまでが、動画になっていた。
現代美術作家は、自分だけで作品制作を完結せず、コラボし、さらに別の人がそれを動画で展開する。
こうした展開こそ、現代を感ずる。
一人の作家が、油絵なり彫刻を制作し、自分の世界に閉じこもっているのとは大きな違いだ。
近代人の感性 渡邊崋山(登)
1804年、登(12才)にとって生涯忘れることができない1つの事件が起きている。
登は、日本橋付近を通行中、登と同年輩位の若君の大名行列を冒してしまった。このため、衆人環視の中で散々打たれたり蹴られたりの辱しめを受けた。このとき、登は、燃えるような発奮が起きた。(「崋山渡邊登」7頁)
封建時代に対する近代の感性が生じたと考えられる。
辻惟雄は、「戦後日本美術の花形としての前衛美術(現代美術)は、大衆の興味をさほどひきつけていたとは思えない。」(「日本美術の歴史」419頁) とし、
「現代美術が社会との連帯を取り戻すための1つの示唆として、<優れて現代的であると同時に、すぐれて伝統的である>という課題」を提示する(同434頁)。
草間彌生、奈良美智、村上隆、名和晃平などの作品は、かつての前衛美術とは異なると思われる。
表現は、具象を用いたシンプルなものである。
現代の感性は、何か?
群れない。主体性。
おしゃれ
今あるものを使って自由に生きる。
感性の追求をすると、個人差が大きいことに気がつく。
Artfacts.Netは、世界各地の美術館やギャラリーでの展覧会で、そのアーティストがどれだけ取り上げられているかを基準としたランキング。
欧米から見たランキングであり、日本にいる立場から見た感覚とは、かなり違ったものであり、おもしろい。
アーティストは、世界基準でランク付けされるということでもあり、厳しいものを感じる。
5000番以内に入っている日本人アーティストは、71名。1.4パーセント強にすぎない。
アーティストの世界は、世界基準で見ることもできるが、国ごとに独自の評価があるのだろうとも思う。しかし、日本人アーティストは、もっと取り上げれても良いように思う。
ランキング上位の日本人アーティスト71名について、それぞれ調べていくと、教育を受けた大学、これまでの滞在地、現在の居住地・拠点について、日本を越えていることがはっきりする。そもそも世界的に評価される人は、日本を出て、主として欧米であるが、世界的に活動していると言えるだろう。
また、具体美術協会の人が、5名含まれていることも気がつく。日本のアンフォルメルとして、海外で評価されたことが、1つのきっかけになっているように思う。もちろん、具体美術協会のアーティストの独自性もあるだろうが、ミシェル・タピエなどから賛辞が送られたことが、欧米の眼に触れるきっかけとなったように思う。
さらに、フルクサスとの関連があるアーティストが、4名いる。
こうした結果は、現実として、それぞれのアーティストは、受けとめる必要があるのではないかと考える。
現代美術は、少なくとも日本では、マイナーだといっていいだろう。
現代美術は、楽しめないところがあるのが原因だ。逆に、楽しめる現代美術は、人気がある。
多数の人が楽しめる美術は、おもしろくない人も多いだろうが、少数だろう。
多数の人が見る作品とは、第1群としては、日本では、ある程度、評価された作品だろう。
いわゆる有名な作品は、有名ということで、多くの人が見る価値があると考えるため、列ができる。
多数の人が見る作品の第2群としては、ぱっと見、分かり易く、きれいであったり、技巧が超人的であったりするものだろう。かわいらしく、また同時に、気持ち悪い(かわきもい)など、そのときどきの流行もあるだろう。
現代美術は、多くの人よりもさらに進んだ先をを提示するべく、格闘したものであると思う。マイナーであることを恥としない。
しかし、それが本当に先を進んだものであるかどうかは、わからない。多くは、泡のように消える。それで生活ができればよいが、そうでない場合、どうするか深刻な問題となる。
このため、多数の人が見る作品の第2群に擦り寄ることを考える人も出てくる。(第1群は、結果であり、いきなりそこに至ることはできない。)
私は、そうすることを否定しない。確かに、真に分かる人からは、見破られるだろう。しかし、多数の支持があれば強い。
現代美術の作家は、真に先に進んだところと、多数の気付きとの間で、身を削ることになる。
アーティストは、人間の広さを意識する必要がある。
人間の活動は、ビジネスの世界を見れば分かるように、色々な仕事が集まって全体を作る。仕事は、分類はできるだろうが、人それぞれだ。職人であったり、組織作りの事業家であったり、お金の使い方を考える投資家であったりする。
アーティストも、1つの職業と考えるのではなく、人間の一面だととらえるべきだ。そうすると、物としての作品を作ることだけが、道ではないと気がつく。
アーティストは、現在を生きる人間であり、世の中との関係で、常に緊張感が生ずるだろう。自分が生きる現在を、自分なりにとらえなければ、何も気がつかず、新しい変化もわからないだろう。
アーティストは、職人として物を作るだけでなく、哲学者としても行動し、事業家としても活動し、世の中を作るべきだと思う。