アーティストとして社会に向かうときの基本
刑法の理論にもあるように、1 構成要件、2 違法性、3 責任、と考えることは基本だと思う。2の違法性は、客観性のことであり、3の責任は、主観性に属することである。
アーティストの多くは、自分の個人的な考え方で作品を作ってしまう。
しかしそれは、3の責任に相当することを最初からしてしまうことだ。
先ずは客観性を考えるべきだ。
刑法の理論にもあるように、1 構成要件、2 違法性、3 責任、と考えることは基本だと思う。2の違法性は、客観性のことであり、3の責任は、主観性に属することである。
アーティストの多くは、自分の個人的な考え方で作品を作ってしまう。
しかしそれは、3の責任に相当することを最初からしてしまうことだ。
先ずは客観性を考えるべきだ。
3ジョルジョ・モランディ(1890ー1964)は、16歳のとき、父の経営する会社で働き始めるが、絵画への関心が高まり、17歳のときボローニャの美術アカデミーに入学した(「ジョルジュ」236頁)。
36草間彌生(1929ー )は、格式高い旧家に生まれた。 広大な土地で種苗業及び採種場を営んでいた。
祖父は、事業に政治にと活発な野心家であり、その娘が母、父はその家の婿養子であった。資産家であった家は、地元の画家のパトロンになったりもして、美術には一定の理解がある家庭ではあったが、草間自身が画家になることとは、まったく別の話であったと言う(「無限の網」55頁)。
母は、草間が絵を描くことにものすごく反対した。
父は、草間が絵ばかり描いていても少しも怒らなかった。
最初に絵の道具を買ったのも父であった(同64頁)。
ジム・ダイン(1935ー )は、父と祖父が営む金物屋を手伝った。12歳のとき母が癌で死去。
4アンゼルム・キーファー(1945ー )は、父が美術教師だった。
2フランク・ステラ(1936ー )は、中流家庭に生まれ、弁護士にでもなるようにと、保守的なエリート教育を受けさせられ、1958年、名門校プリンストン大学を卒業したが、兵役に就く予定が、左手指の運動機能に欠陥があり、入隊を拒否され、唯一の特技であったペンキ塗りのアルバイトをしながら、同じ道具と材料で絵を描き続けた。
(1)アンディ・ウォーホル(1928ー1987)は、移民の子であり、父は炭鉱労働や建設工事に携わっており、一家は貧しかった。
5(2)デイヴィッド・ホックニー(1937ー )は、父が事務員、母が敬虔なクリスチャンであり、貧しいながら家族の愛にあふれた少年時代を送った。
4(1)アンドリュー・ワイエス(1917ー )は、父ニューウェル・コンヴァース(通称NC)が20世紀初頭のアメリカで活躍した挿絵画家。
(2)エドワード・ホッパー(1882ー1967)
特になし
5(3)ベルナール・ビュフェ(1928ー1999)は、父が鉛工場の経営者であり、母が敬虔なカトリック教徒であったが、父母の不仲により、家庭内は常に険悪なムードに包まれていた。
父は、画家になる夢を持ち始めたビュフェを疎ましく思っていたが、母の愛情を支えに、画家になる決意を堅くしていった(「ビュフェとアナベル」15頁)。
(4)ベン・シャーン(1898ー1969)は、貧しい木彫職人の子として生まれた。
(1)カレル・アペル(1921ー2006)は、15歳のとき、父の理髪店で働き、叔父より絵のレッスンを受けた。
(2)アントニ・タピエス(1923ー )は、父が弁護士、母方は出版・書籍商を営む家系であった。
21歳のとき、バルセロナ大学法学部に入学したが、アカデミア・バイスで素描を学び、22歳のとき、アトリエをかまえ、画業に専念した。
(1)ポール・ジャクソン・ポロック(1912ー1956)は、5人兄弟の末子で、父が野菜農場経営などをしていたが、母が芸術に理解があり、長兄、四男も画家を志した。
1(2)マーク・ロスコ(1903ー1970)は、帝政ロシアのドヴィンスクに生まれ、10歳のときにアメリカに移住し、学業優秀で、奨学金を得て、名門イエール大学に合格、2年で中退。
アンフォンス・ミュシャ(1860ー1939)は、絵を描くのは好きであったが、むしろ音楽への憧れが強く、11歳で聖ペトロフ教会の少年聖歌隊に入り、寄宿生活を送りながらミサ曲を歌っていた。聖ペトロフ教会の少年聖歌隊脱退後、学業がふるわず中学校をやめ、実家に戻ったミュシャは、裁判所の書記として働きながらデッサンを続けた。