A16 赤塚一三(1956ー )
「樹木や草花、山や大地は分けがたく溶け合っていわゆる具象とは距離がある」(川上實)と評されるように、もやもやしたところがあるのは確かだと思う。
赤塚の「サン・ネクテールの春」を見ても、道なのか樹木なのか雲の影なのか、残雪なのか植物の芽吹きなのか光の輝きなのか、など流動的ではっきりしないところがあると思う。
赤塚は、「見えるようにではなく、在るように描きたい」というセザンヌの方法を信念としていることから、そこに在るものを、先ず自分の中に移し、それをキャンバスに表現するというプロセスをとると聞く。「いも判」にも似た「赤塚判」とでも言ったものだろうか。
したがって、空間だけでなく時間も「赤塚判」には彫り込まれているように思う。 「筆を進ませる度に画面の上に現れる一つ一つの扉を開けるような、描きながら何かを探している表現」(廣江泰孝)というとらえ方は、的確だと思う。