A21 前川宗睦(1986ー )に見る展開(理屈っぽく書くとこうなるけれども自然に)
1 自分で自分の存在を確かめる最初の方法は、自分に触れてみることだろう。
私たちは、自分の視覚を同時に利用しながら、自分の外界の物に触れてみて、得られた自分の感覚を積み重ねている。その感覚を利用して自分に触れてみることにより、自分の存在を確かめ、自分を想定する。
自分の視覚が及ぶ範囲は、眼と手で自分の存在を確かめられる。
視覚が及ばない所は、鏡を利用することもあるだろうし、カメラを利用することもできる。
しかし、自分の体の中は、ただちに見ることはできない。皮膚の上から触れることにより、骨格の1部は確認することができる。
2 自分と外界は、皮膚を境界として接している。
しかし、皮膚は、自分の外から見ることはできるが、自分の内から見ることは、困難である。
したがって、自分で自分を見るとき、本来は「こちら」にあると思われる自分は「あちら」に存在する。
自分の存在を確かめるために、「あちら」に存在する自分の表層をトレースすることになるだろう。
3 自分で自分を見るときに、自分は「あちら」にあるが、自分は、やはり自分であって、「こちら」にあると考えるだろう。
それは、誰しも人間についての学術的知識があるため、その影響があるだろうと思われるが、自分の脳は、本来的に、自分は自分と思うのだろう。
このため見ることができる表層だけでなく、自分を階層的に理解し、自分をとらえるだろう。
4 視覚は、対象の形と色、対象との距離(起伏)によって判断する。
触覚は、対象の起伏によって判断する。
したがって、自分の存在を確かめるための方法として利用する視覚と触覚は、対象との距離が大きな意味をもつ。
しかし、対象との距離を把握する距離感ほど不確かなものはないだろう。
自分が、自分だけでなく、外界を広くとらえるとき、距離感は、大きく揺れ動き、変容する。距離感は、脳の問題だと考えると、無限に変容すると言って良いだろう。
自分が自分の存在を確かめるときに感じた「あちら」と「こちら」の関係は、外界を広くとらえたときにも感じるだろう。外界だと思っていたものが、実は、自分の内側から見た姿かもしれない。「あちら」と「こちら」の間は、確定的にとらえにくいと思われる。
5 距離感について、普通、視覚が中心になってしまうが、触覚も意識したとき、新しい変容が生じてくる。それは起伏のイリュージョンと言っても良いものだと思う。「眼で触れる」、「手で見る」という、言葉の遊びではないとらえ方の世界がある。それは脳の世界なのかもしれないが。
あちらとこちらの間について、それは変えることができるのだという感覚を提示したい。