夢窓疎石
苔寺(西芳寺)の庭園は、禅僧の夢窓疎石(鎌倉末-南北朝時代)が、作ったものである。
西芳寺は、西方浄土から名をとった「西方寺」と、穢れた場を意味する「穢土寺」を統合して、夢窓疎石が再興したものである。「西方寺」があった平坦な土地に、池泉回遊式庭園を、「穢土寺」があった洪隠山(こういんざん)の斜面に、枯山水式庭園を作り、2つを結んで1つの庭園とした。
ただし、池泉回遊式庭園が苔の庭になったのは、江戸時代末期とされている。
夢窓疎石が意図したのは、天国と地獄だといわれる。浄土と穢土をつなぎ、往来することで、庭と向き合う者に、死生観を考えさせようとしたとされる。
私は、こうした知識を持って、庭園をじっくり回ってみたが、上段が枯山水式であり、下段が池泉回遊式であるため、位置関係の点で、通常の天国と地獄のイメージとは合わないかもしれないと思った。
しかし、夢窓疎石の作庭は、当時の「現代美術」だと感じた。
もともと2つの寺があったところに、それを統合する作庭をして、過去を組み直し、そうすることによって今をとらえ直し、その結果、未来を考えさせるものだと思う。枯山水式庭園では、古墳の墓石を用いたということなので、夢窓疎石の意図をますます感じるだろう。通常の天国と地獄のイメージとは合わないことすら、夢窓疎石の意図かもしれない。
現代美術は、日本で根付くのかという議論があるだろうが、すでに日本の庭園には、現代美術の思想があると思う。