奈良美智

奈良は、自分に素直に、自分を記録し続けた作家である。
しかし、その過程では、それをゆがめる作用を持つ出来事も次々と発生した。

奈良が描く子供たちは、奈良自身の自画像だった(美術手帖2012/09 26頁)。
したがって、奈良の作品は、そのときどきの自分の記録といって良い。

自分も作品を通じてファンとはパーソナルな関係でつながっていると見ていたのに、メジャーになるとその関係は崩れて、自分対個人だったのが自分対多数に変ってしまう(30頁)。

01年の頃に、作品のテーマとしていた子ども時代の感性というのが、集団作業によるコラボレーションを経て、作品の質が次第に変化していった(薄れていった)(31頁)。
コラボレーションは、メジャーになることと同義とも思える。

2012横浜美術館での「君や僕にちょっと似ている」展は、題材は全て女の子であった。(横浜美術館の別の会場には、奈良の以前の作品もいくつかあり、また、2012年の男の子を題材とした作品もあった。)
観ている人たちは、「かわいい」と口に出している人もいたし、そう思っているのだろう。小学生くらいの子どもたちが、クラス単位で観ていた。

奈良の作品は、女の子を題材としたものに収斂していくようにすら感じる。これは、多数の人に分かり易いし(本当にわかってもらえるかどうかは別にして)、観てもらいやすいからだろう。少なくとも展示する側の人は、そう判断していると思われる。
奈良の思いは別として、多くの人から観てもらえるということは、美術の世界では重要なことであり、作家と観る人との思いのずれがあっても、どこかつながる線があり、その線が太くなって、一致に近づけば、良いことだろう。

奈良自身は、図録の巻頭言でこう述べている。
「もはや好むと好まざるとにかかわらず、自分が作るものは、僕自身の自画像ではなく、鑑賞者本人や誰かの子どもや友達だと感じるオーディエンスのものであり、欲を言えば美術の歴史の中に残っていくものになっていくと思っている。(中略)
そういう意味も込めて、もはや自画像ではなく「自分にちょっと似ている」自立したもの、かといって100パーセント、オーディエンスに委ねられるものでもない。僕の絵を見て「これは私だ!」と自己投影する話はよく聞く。それはヴィジュアル的な表面にではなく、内面で重なり合うレイヤーを感じての自己投影。僕は、そういう時は、もうそれでいいと思うようになった。でも、、やはり自分が作り出したという親心は残っている。それで「僕にちょっと似ている」であり「君にちょっと似ている」となったわけなのだ。そして、それらはあくまで「僕や君にちょっと似ている」のであって、作品自体は僕やオーディエンスのように、ひとつひとつが自我を持つ「作品という名の本人」であるのだ。」
奈良のとまどい、反発、あきらめ、確信などなどが混ざった気持ちが感じられる。

しかし、作家がいろいろな意味で成功するということは、こういうことなのだろうとも思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年09月06日 | Permalink