結局、何にお金を使ったかが全て。
明治維新のとらえ方としても、これまで武家社会が抱えてきた武士に対する必要最小限の支払いを止めて、国家のために必要なものを購入したことが、日本の革新に役立った。
明治維新のとらえ方としても、これまで武家社会が抱えてきた武士に対する必要最小限の支払いを止めて、国家のために必要なものを購入したことが、日本の革新に役立った。
自分自身が事業家であると、自分がなぜ事業家となったかわからないことが多い。
子孫が自分と同じように事業家となるとは限らず、むしろそのきっかけがないことが多いだろう。
したがって、育成計画を意図する必要がある。
庭の作り方について考えを更新するためには、相応の時間がかかった。
作った人から受け継いだという意識だったこと。
そもそも庭の植物(要素)についての知識がなかったこと。
庭作りの基本事項(構成)も知らなかったこと。
そもそも個人庭を見ていないこと。
何年か前、今も満99歳で頭もしっかりした健康な男性と話をしたとき、その人は、人混みを避けたということだった。
有名な場所は、休日は混みあうため、平日に出かけたということだ。
交通手段も、公共交通機関ではなく、自家用車を運転して出かけた。
それだけが健康の秘訣ではないだろうが、重要な点だと感じていた。
最近の新型コロナウイルスから身を守る方法は、人混みを避けるということだ。
新型コロナウイルスだけでなく、それが終息した後も、人混みを避けるということは必要だろう。
人々は、人混みを避けるということをある程度学んだといえるから、今後は、人混みを前提とする行事・仕事は、避けられていくだろう。
建築家は、どうしても見栄えを重視すると思う。
もちろん、見栄えの良い家を求める人が多いからだろう。
しかし、生活感のない家を見ると、そこで何をするのだろうと思ってしまう。
また、その大きな家に、何人で住むのだろうと思ってしまう。
家族の構成は、時間とともに変化する。
子供は、独立していく。
配偶者を亡くして、一人で住まなければいけないことも想定する必要がある。
自分も出ていくこともありうる。
特別に設計した家は、他の人が利用しにくい。
大きすぎることもある。
冷暖房、掃除など大変だ。
大きな家に住みたいという人は、自分で設計したいと思う。他人が設計した家には住みたくないようだ。
大きな家は、空き家になると、壊されることが多い気がする。
結局、個人の住宅は、他の人も利用できるように設計されるべきだと思う。
家は、見栄えではなく、ある程度抑制された設計の中で、住む人が十分に利用することを考えるべきだ。
立派な建物だが、樹木の多くを伐採してしまい、鉄と石の塊のようになっている。
樹木は、新しく植えられているが、ひょろひょろっとした大きさだ。
苗木でこれから大きくなるというものでもない。
庭は、水やり、雑草取りが大変だ。
樹木や草花をじっくり眺めることもしなくなった。
名前を知っても、だからどうなるというものでもないと思うのだろう。
マンションなどでは、自分で手入れをするのではなく、管理者が専門の業者に依頼するだけだ。
しかし、こうした無関心では、生活を楽しめないだろう。
近時、共働きの夫婦が多くなり、勤務先に近いところを住まいとする傾向が強い。
これは、利便性を重視する考え方だ。
考え方というよりも、そうするしかないという面が強い。
しかし、共働きでない家庭の場合、考え方はいろいろある。
不動産そのものの価値と、そこに住むことで得られる価値、がある。
静かな住宅街の方が、子どもの教育環境には良いと考える人がいる。
柳田国男「先祖の話」によると、先祖という言葉は、2通りの解釈があるとされる。
1 家の最初の人ただ1人が先祖だと思う立場
2 自分たちの家で祀るのでなければ、どこも他では祀る者の無い人の霊、すなわち先祖は必ず各家々に伴うものと思う立場
しかし、この点については、私は、多くの人が具体的に先祖として思い浮かべるのは、2の立場でではないかと思う。
1 実際問題として、自分の家の初代は、探しようがない。
そもそも記録が残されていない。
何代も続く家であっても、家の最初の人ただ1人を特定することはできないだろう。せいぜい何百年だろう。
2 先祖の祭(祀り)は、もとは正統嫡流の人の権利であり、それ以外の人は、たとえ本家の先祖が分かっていたとしても、これを祀らなかったという。
3 資料などで、自分がさかのぼれる先祖までしか、具体的な祀る意識は及ばないであろうと思う。
この結果、「御先祖になる」という言い方が出てくる。
「御先祖様になりなさい。」というのは、新たに初代となるだけの力量を備えているということを受け合った言葉だと言う。
柳田国男は、以前の日本人の先祖に対する考え方は、人は亡くなってある年限を過ぎると、それから後は御先祖さま、またはみたま様という1つの尊い霊体に、融け込んでしまうものとしていたようであるとする。
この結果、家が旧くなり亡者の数が多くなると、短い生涯の主人や、子も無く分家もせぬうちに、世を去った兄弟などは、祀ることもなくなり、大抵はいわゆる無縁様になってしまうが、そのような差別待遇はしなかったことに至る。
柳田国男は、この考え方は、神様にも人格を説こうとする今日の人には解しにくいことだとする。
しかし、私には、以前の日本人の先祖に対する考え方の方が、しっくりくる。
親鸞の考え方に近い気がする。
関心のあるテーマを選ぶ。
例えば、窯元を、シリーズ本の中から選ぶ。
宿泊地を、自分の関心で選ぶ。
温泉めぐりをしているのであれば、日本全国の温泉紹介の本で、テーマの近くの温泉を選ぶことができる。
料理が目的であれば、ネットで選ぶこともできるが、あらかじめ気になる店を選んでおく必要がある。
雑誌などの紹介で関心がある店が見つかれば、切抜きなどをして、地域別のファイルに綴じておく。
関心があるテーマ・料理などは、日本全国(海外も視野に入れるのであれば、世界全体)のファイル(地域軸)に綴じて保管する必要がある。
関心がある出来事・法則が見つかれば、自分の歴史年表(時間軸)に記録する。
地域軸と時間軸のファイルは、常にクロスさせながら見ることにする。
経験した旅行の資料は、地域軸のファイルに綴じ、見返すことができるようにする。
自分が主として話し続ける人は、自分の判断基準しか分からない人のように見える。その結果、柔軟さがなく、傲慢に見えてしまう。
会議・会合は、自分とは別の考え方をする人を知る機会である。