子どもは、自分の拡張したところだ。
子どもの幸福感は、自分のことのように感ずるものだ。
子どもが贅沢をすれば、自分が贅沢をしている感覚がある。
私は、このように感ずるが、世の中の人が全てそうとは限らない。
しかし、子どもは、自分の拡張したところだと感ずる方が、いいと思う。
ただし、このことは、あまり子どもには言わない方が、いいとも思う。
子どもの幸福感は、自分のことのように感ずるものだ。
子どもが贅沢をすれば、自分が贅沢をしている感覚がある。
私は、このように感ずるが、世の中の人が全てそうとは限らない。
しかし、子どもは、自分の拡張したところだと感ずる方が、いいと思う。
ただし、このことは、あまり子どもには言わない方が、いいとも思う。
現在の若い女性の意見としては、嫁ぎ先の両親との同居など、とても考えられないという。
嫁ぎ先の両親が、建物を別にしても、隣にいるだけでも嫌だという。
(お嫁さんの実家の隣であれば、問題はないようだ。)
これは、舅・姑の態度が、これまでよほど悪かったのだろう。
これからは、この点を注意していく必要がある。
子ども夫婦のプライバシーを尊重して、普段は離れている必要がある。
同居までいかなくとも、両親が近くにいることは、メリットもある。
若夫婦の子を預かることもできる。
舅・姑としても体が不自由になれば、若夫婦の手伝いはありがたい。
隣に住んでくれるお嫁さんは、よくできたお嫁さんなのだということだ。
物事には、時期がある。
学校で学ぶ時期
仕事を始める時期
家庭を持つ時期
子どもを育てる時期
こうした時期をあいまいにして、自由に過ごすことは、楽しいこともあるだろう。
しかし、そのしっぺ返しは、必ずどこかで来る。
豪邸は、どこか特殊な建物だ。住む人の個性・好みを入れようとする。
その理由は、権勢の誇示である。
しかし、いつまでその特殊な形で使うつもりなのか、使えるのか、よく考えてみるべきだ。
売らなければならないときに、特殊すぎると、買い手は避けてしまう。
豪邸は、ただでさえ大きすぎて高額である上に、個性的過ぎると、買い手は、限定されてしまう。
一族の連綿と続く生活のために、自宅の位置づけを考えるべきだ。
相続人の間で遺産分割の仕方について合意できていれば、争いは生じない。
ただし、生前にそのような合意をしても無効とするのが、法律の立場。したがって、生前には合意できていても、それをひっくり返すことはできてしまう。
このため、遺言をする必要があることになる。
ただし、遺言でも、全く自由になるものではなく、各相続人の遺留分を侵害すると、その限度で、もらいすぎた人は返さなければならない制度はある。
これが現在の法制度であるが、本来は、相続人の間で、分割の仕方についてきちんと合意できていることが大事だと思う。親と子らの間で、信頼関係があることこそ重要だ。
そのためには、幼少の頃からの育て方、成人してからの生活態度への注意など、親が考えなければならない。
基本は、
「財産は、自分で稼げ。」
「財産は、子孫のために預かっているにすぎない。」
「親も、自分たちも、兄弟間で比較するな。」
「財産の管理は、能力のある者に任せよ。」
こちらが相手方に対して何か配慮しているときに、その相手方が、ぶすっとした態度のまま通り過ぎてしまう、ということをよく経験する。おじさんに多い。
配慮されて当然と考えているのかもしれないが、それが日常になってしまうと、相手方の配慮に対する機敏な返礼ができなくなるだろう。機敏な返礼は、コミュニケーションの1つだ。機敏な返礼ができないということは、コミュニケーションができないということに結びつく。
そうなると、本当にコミュニケーションが必要な大事なときに、それができないことになる。その損失は計り知れないだろう。
日ごろから、意識しなくとも、機敏な返礼ができるように、心がけておくべきだ。少し口角を上げるだけでも、意味がある。
世のマスコミ、メディア、SNSへの個人の書き込み、などなど、人生の楽しみ方を本当に表しているのだろうかと思う。
特にお金持ち、セレブの生活として紹介されている生き方を見ると、これではすぐに飽きるのではないかと思われる。
ただ部屋数が多いだけであったり、プールが付いているだけであったり、そこで示されているのは、面白いとは言えない。また、海外旅行、しゃれたお店も、ただ経験するだけならば、同じことだ。
寝て暮らしたいという人もいるようだが、それも飽きると思う。
楽しむためには、知恵が要ると言わざるを得ない。
それでは、人生を楽しむために、本を読んだり、ネットを見たりして、勉強しなければならないのか。
これは1つの方法だと思うが、年齢とともに、本を読むことは苦痛になる。
本を読んでも、もう少し簡潔に書いてくれないのだろうかと思ってしまう。読むに当たって、息が短くなっている気がする。
本を読むことが、時間つぶしをしているだけにもなりかねない。
本を読むことと、それを実行することとを組み合わせることも、1つの方法だと思う。
実行の観点から、本を読むということ。
夢中になれれば、それで良いではないかという考え方もあるだろう。
夢中になり続けられることは、難しいが、夢中になれるものを探し続ければ良いのかもしれない。
他人がどう思おうと、自由であれば良いだろう。
老人は、社会を支配している。したがって、老人に好かれれば恩恵を受ける。老人に好かれることが、若者には必要だと思うが、必ずしもそれを心がけている若者ばかりではない。それぞれの価値観・判断だろう。
ここまでの言い方は、自分が若者に属していると考える立場からのものだ。しかし、年をとるにしたがい、誰しも老人の立場が分かる。
老人は、老人なりに、自分が支配・維持してきたものをどうするかを考えている。そのときに考慮するものとして、自分がどのように扱われているかが大きな要素となる。それはやむをえないものだろう。
老人は耳が遠くなり、人の話が聞き取りにくくなっている。また、老人になると、いろいろ間違えることが多くなり、話も間違いなく聞き取ろうとする。そのために、のろくなりがちだ。こうしたことが老人の特色だと思う。
こうした特色により、老人は遠ざけられる。意外に一人ぼっちでいることが多い。
その結果、老人は、自分なりの「戦略」を持つ。(老人がどこまで意識して戦略と考えているかは、人それぞれなのでここでは「戦略」とする。)老人は、自分がどのように扱われているかで判断するようになる。
ここからは、若者に属している人たちへの話。
老人の「戦略」を知らないで事がスムーズに運ぶと考えたら誤りだ。この点を誤らないようにするために、道徳はあるといってもいいくらいだ。老人の「戦略」への対応は、それほど難しいものではない。
しかし、こうした若者の「戦略」を持たない若者が多いのが現実だ。
世の中を見ていると、出身地に留まる者と出ていく者とがある。
名古屋で仕事をする以上、名古屋に住むのが当然と考える人もあれば、そうでない人もある。住むにあたっては、家を借りる人もあれば、購入する人もある。
戦国時代も、地に留まる武士(豪族)と、全国制覇を目指して居城を次々に変えていく武士(大名)とが、いた。
どちらの生き方が合理的かは、その立場によるので、一概には言えない。
しかし、出身地に留まろうとする気持ちが大きな影響を持つとは思う。
「出身地に留まろうとする気持ち」を超えていくものは、自分の人生をどのように組み立てるかという計画の問題であり、簡単に言えば、目標設定の問題だと思う。
目標設定がないと、多くの人は、とりあえず日常生活が送れればいいと考えてしまうものだ。日常生活を超える部分を作り上げることを考える必要があると思う。
わが子が、多くの物事がチームで進められていることを想像できず、一人だけ遅く、物事が停滞するとき、やりきれない。
イライラのため、自分の仕事にも支障が出るくらいだ。
こんなときは、わが子に対してテストが繰り返されており、結果が何回も出ているととらえるべきだろう。
わが子だから親の考え方・手法を理解するだろうと、安易に期待してはならないのかもしれない。
テストの結果を何回も確認して、イライラせず、客観的に進め方を修正するしかない。
もちろん、愛情は、別の問題として大事にする必要がある。