納経帳(朱印帳)

 お遍路や札所めぐりは、自分には、まだまだ先だと考えてきたが、最近、90歳を超える方とお話をしていて、考え方が違ってきた。
 「納経帳は、2つ作っておきなさいよ。」という話が、一番印象に残る。奥さんといろいろなお遍路や札所めぐりをしてきたが、奥さんが先に亡くなったとき、納経帳をお棺に入れてあげたので、1つしか作らなかった所は、残っていないのだった。
 その方は、お遍路や札所めぐりを若いときから行なっていたが、白装束を着て行なったものでもないし、信心があったものでもないとのことだった。歩いて回った所もあるし、タクシーで回った所もあるし、自分で運転して行った所もあった。そうすることによって、日本には良いところがたくさんあることに気がついた。じっくり見れば、見るべき所はいくらでもあるとのことだった。気持ちも変ってきたのだろうと思う。
 こうした気持ちは、少し分かる気がする。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年11月13日 | Permalink

「おばあちゃんとして生きたかった。」

 弁護士として、離婚に関連した紛争の中で対応しているとき、相手方の女性から、「離婚などしないで、おばあちゃんとして生きたかった。」と言われたことがあり、「はっ」としたことがある。ただし、その女性は、自ら離婚手続を始めているので、無理やり離婚を求められたものではない。

 「喜びも悲しみも幾歳月」のように、人生で色々あったが、最後は、おじいちゃん、おばあちゃんとして残ったというのは良いことだと、年を経て感ずる。相手方の女性も、このことを感じていたのかもしれない。私は、そのことに「はっ」としたのである。しかし、同時に、それならば、もっと別の道を考えた方が良かったのではないかとも思った。

 人生の全体を頭において物事を決めることは、誰にとっても難しいことだろう。また、そのようなアドバイスは、昨今、受けにくい。我慢することを最初から求めるものではないが、我慢も大事だと思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年11月01日 | Permalink

本を持っていることに意味があるか?

 一通り読んだ本でも、改めて、あるポイントを決めて拾い読みをしてみると、ほとんど読んだ記憶がないということが多い。読んだ本は、知層(地層)になると言われても、実感できるかどうか心もとない。
 したがって、本を持っていても、何がどこにあるか不明のことが多い。最近では、本は売却して、スペースを取られないようにした方が良いという考え方もあるだろうと思う。
 しかし、弁護士として、普通の人よりは、本を抱えている自分の立場から言うと、本は本として持っていることの意味はあると考えている。
 本は、1つのアイコン(記号)のようなもので、中身はほとんど忘れてしまっていても、何かしら残っているものがある。本を書棚で並べ変えてみたり、グループ化してみたりすると、何か気がつくこともある。偶然でも開いて読んでみると、現在に関係することもある。自分の運を信じて、本を開いてみることは、発想の転換になることもある。
 自分の亡き後、本を残されても、遺族は迷惑かも知れないが、気になったところに付箋とメモをつけているので(決して多くはない)、のぞき見してもらっても良いかと思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年10月17日 | Permalink

母親の子育て

 塩野七生、ローマ人の物語11巻21ページに、歴史家タキトゥスが書き遺した、紀元2世紀のローマの上流家庭での子育てをうかがわせる記述が紹介されている。 

「グラックス兄弟の母コルネリアヤユリウス・カエサルの母アウレリアの最大の関心事は、息子を育てあげることにあった。(中略)それが今や、母親の任務は子を産み落としたら終わりだ。(中略)幼な子は、無教養で下品な女奴隷たちに囲まれ、彼女たちの下らないおしゃべりを耳にし、なるべく怠けようとしてずるく立ちまわる様を観て育つことになる。」

タキトゥスは、何でも悲観的に見てしまう人なので相当に割引いて受けとる必要があるとも、塩野七生は指摘するが、カエサルの時代から200年が過ぎて、指導者階級の子育てが様変わりしたようだ。

ローマの指導者階級と比べる必要はないだろうが、母親の子育てが大事であることは、時代を問わないだろう。弁護士として、いろいろな家族を見てきて、そう思う。
男性の側からすると、どのように子育てをするのか、配偶者を選ぶときから考えなければならないだろう。
また、祖父母の立場からは、孫はその母(嫁)の子であることを忘れてはならないだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年09月20日 | Permalink

旅行の記録

 自分や妻の、祖父母、父母、子供も入れた年表を作成してみた。弁護士として、人に話をする機会は多いものの、わが身はどうかと実行してみた。
 時系列順に、年齢、主な出来事を間単に記入しただけのものである。この年表は、ある一時点の家族構成がわかり、未来の姿を想像し易くなる点でいろいろと考えさせてくれる。
 この年表に、過去の出来事を追加して記録していくと、過去をとらえなおすことができる。
 父母が旅行をしたときに、絵葉書セットを購入することが多かったが、そこに行った日が記録されているものがある。また、写真で年月日が分かる場合もある。こうして旅行の記録を年表に落とし込んでみると、これまで気がつかなかったこと(父母の心境などプライベートなことにすぎませんが)に気がつく。
 過去のとらえ方に気がつくことがあると、未来の見方も変わるように思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年07月05日 | Permalink

家族(夫婦)は、どのような年齢構成で老いていくのか。

 年齢は、誰しも1年に1つずつ進むのであるから、将来の年齢構成は、年表にすれば、一目瞭然である。
 しかし、年表にしてみたりして、将来の姿を、1年ずつ具体的にイメージする人は少ないだろう。
このため、家計の管理をしている人が、70歳くらいになったときどうなるかについて、明確に考え、対策を実行している人は少ないだろうと思う。人生に楽観的であることは、悪くないだろうが、将来発生する問題については、やはり考えるべきだろう。
 すぐにでも気がつくこととしては、男性よりも女性の方が長命だから、自分亡き後の妻の生活をどうするかという問題がある。子供がいて、きちんとしてくれるのか、夫である自分がきちんとしないといけないのか、人により状況は違う。定期的に生活費が渡る方が良いのか、妻の自由裁量を認めた方が良いのか、という判断も必要である。
 弁護士は、この点についても相談にのることができるので、念のため。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年06月25日 | Permalink

写真の整理をどうするか。

 写真の整理が問題になるのは、多くは、遺品の整理をするときだろう。残された写真を捨ててしまっていいかどうか悩む。弁護士としてではなく、一個人としてである。
 したがって、自分が生きているうちに、残される人のことを考えて、整理する必要があると思う。
 年をとったら、写真は整理して、大部分は捨ててしまうことを考える人もいるだろう。しかし、残された人から見たときに、写真があまりないのも寂しいことではないだろうか。
 デジタル機器で保管するから、場所はあまり取らないと考える人もいるだろう。しかし、場所の問題もあるけれども、ただ残されても困るのではないかと思う。
 それでは、どうすれば良いか。
 古い写真は、デジタル機器で取り込むというような手間をかける必要があるものは別として、手間をかけずに時間順に並べておけば良いと思う。あちらこちらに、ばらばらに保管することだけは避ける。
見て欲しい点があれば、何かコメントを残しておけば良い。
先祖からの写真も同様にする。
 全体の分量がはっきりすれば、保管する側も気持ちがすっきりするだろう。
完全な整理など考えないで、時間があるときに、おおよそ並んでいる状態までには、まとめておく。残された人が、それを見て何かを感じてくれれば良しとし、捨ててもらっても良しとする。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年06月19日 | Permalink

後継者を見ていて、いろいろ感ずるところがある。

あまりに猪突猛進でも不安になるが、自分に比べて消極的なのも不安になる。
自分は、弁護士として、ある程度リスクをとって仕事をしてきた。助けになるものは全て使って、すこし背伸びをしながら進んできたと思う。
後継者も、自分と同じようにリスクをとって、仕事を拡げて欲しいと思うが、自分と同じようにはできないことの方が多いのが、世の常だろう。
後継者が消極的に映るのは、経験不足が原因だろうと思う。経験を積んだ人間と同じようには考えられないだろう。したがって、経験を積ませることは、どこの仕事場でも必要だ。経験を積むことで、発想が広がることは多いだろう。この点に注意して、仕事をしたいと考えている。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年05月18日 | Permalink

自分はどのような印象をもたれているか。

 小学校6年生のときの授業だったと思うが(私の通っていた小学校は、何か特定の教科ではない授業があった)、少人数グループに分かれ、それぞれの人について他の人がどのように見ているかを率直に書き出して互いに読み、話し合うという機会があった。(この授業では、おそらくいろいろな注意や配慮がなされていたと思うが、細かい所は忘れてしまった。)
 私にとって、これまでの人生で最大の衝撃だった。
 他人が自分を見る眼があり、それは自分が自分を見る眼とは大きく異なるということをわからせてくれた。
 授業のやり方によっては、とんでもない結果へと発展してしまうことも大いにありうるが、私にとっては、ショックではあったが、それをなんとか受け止めることができた。
 本当に貴重な体験であり、自分の一人よがりに気付き、また、友情というものも強く感じた。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年05月10日 | Permalink

在宅での死

 健康に問題が生じた場合、入院する。そこで不治の病であることが分かった場合、少しでも生き長らえる設備が必要であるから、最後まで病院にいるのが良いと考えていた。弁護士の立場としても、そのような形を見てきたと思う。
 しかし、「在宅」とは、自分の死に際ぐらい自由でありたいと願う人にとって、その思いを実現する手段なのである(文芸春秋スペシャル2011春号77頁)という考え方に接し、最後は自宅に戻るという選択肢も十分にあると思うに至った。
 たしかに病院では、延命のための設備はあるが、家族が泊り込むことは大変なことであるし、自分の好きなものが自由に置けるものでもない。
 しかし、家族の立場から言うと、少しでも長く生きて欲しいと思うから、最後は病院でと考えてしまうだろう。自分の死に際の自由を実現するためには、自分が元気なうちに、その意思を伝えておく必要がある。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年04月13日 | Permalink