本は、ファミリーの共通の財産である。

 親の立場として、自分の子が、どのような本を読んでいるかは、関心がある。読んでいる本を見れば、子の成長をはっきりと知ることができる。
 これに対して、子の立場からすると、親に、どんな本を読んでいるかを、知られたくはないだろう。
 しかし、親として、自分が持っている本を、子が読もうとするならば、大いに結構であるとして、解放するし、その逆も、大いにありなのだという、コンセンサスができることは、ファミリーにとって大事なことだと思う。
 本には、いろいろな書き込みをするだろうし、付箋もつける。この記録は、世代を超えて貴重だ。
 これは、親子で酒を飲みながら話をすることに匹敵すると思う。
 弁護士の立場からは、その人が、どのような本を持っているかは、注意している。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年04月03日 | Permalink

読書

 どのような本を読むかは、自分の年齢と共に変化している。
 学生時代は、学校で使う教科書(基本書)を読む必要があったが、同時に小説も読んだ。
 ところが社会に出て仕事をするようになると、仕事上必要な本以外に、経済書を読むようになり、小説(フィクション)は少なくなった。
 そのうちに歴史に関する本に興味が出てきた。いつも自分を誰かの立場に置いて読む。
 読む本に変化を生ずるのは、誰かの影響である。身近な人からの勧めもあるし、何かの本やネット上での紹介の場合もある。興味を限定せず、素直に読み始めてみると意外な展開があるものだと思う。
 経験を積むにつれ、著者と自分との比較ができるようになると、おもしろいと思うようになる。
 50歳を越えて、読むことに疲れを感ずるようになると、読む本を選択するようになり、また、全てを読むこともしなくなった。本の内容が予想できるようにもなる。
 最近感ずるのは、本は何かの実行に結びつけなければ意味はないと思うようになったことだろう。読むことが目的ではなく、読んで気付き、実行し、自分が成長することが目的だと思う。
 弁護士の立場からは、実行に結びつけている人が、成果を出していると思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年03月26日 | Permalink

親として、子に対し、どのような結婚をするべきかを伝えるべきか。

 結婚が閨閥作りのために利用されていることは、昔はあったようだが、今はあまり聞かないと思われる。
 しかし、あまり表立ってはないにしても、昔と同じようなことを考える人はいるだろうと思う。弁護士として、いろいろな人と話をしていて、そう思う。
 子の人生は子のものであって、親が口出しするべきではないし、口出ししない方がかえって良いという意見が多いかもしれない。お見合い結婚か恋愛結婚かと言われれば、今は恋愛結婚の時代だと思う。
 しかし、どのような結婚をするか(配偶者に誰を選ぶか)によって、人生は変わってくるだろうから、親としては、気になるところであるし、何らかの意見を伝えることは良いと思う。
 どのような意見を伝えるべきかは、プライベートに直結しすぎてここでは書けない。
 子がどのような配偶者予定者を親に紹介するか、その場になっての覚悟はしておく必要があると思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年03月21日 | Permalink

目くばりのできる女性が結婚を決意するとき

 目くばりのできる女性が結婚を決意するときには、心の片隅で親を安心させたいと考えるときく。自分の幸福よりも親の幸福を優先させることもあるときく。
 この考え方は、古風であるようにも思うが、日本的なのではないかと思う。
 現代では、こんな風に考える人はいないよと言う人は多いかもしれないが、私には大事な判断のように思う。
 結婚生活は、相互理解と相互依存の中で、その時々に2人で築いていくもので、「この人以外に結婚は考えられない。」と言うほど限定されたものではないと考えるからだ。こんなことを言うと、世の多くの人から非難されるだろうと思うが、弁護士として感ずるところでもあるし、こんな考え方もあるという程度に受けとめていただければと思う。
 なお、離婚について前向きに考えることとは別の問題である。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年03月15日 | Permalink

ファミリーを見るときは、現実の能力をよく見て、それを前提に考える。

 弁護士として、一代で事業を築いた人を見ていると、身内に対しても自分と同じレベルを求めているように思う。「いや、自分と同じことは求めていませんよ。」と言う人であっても、ある程度は、自分に近いレベルを期待していて、その期待との差がわかったときにショックを受けることがあると思う。
 自分の能力とファミリーの能力とは別だと考える必要がある。ファミリーを見るときは、少なくとも普通の能力の人であれば大いに良しという前提で考えるべきだろう。
 いや、本当は、それでも甘く、現実の能力をよく観察して、それを受け入れるべきあろう。
 ファミリーの現実の能力を前提に、ファミリーのあり方を考える必要がある。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年03月12日 | Permalink

子の成長

子が自分の仕事を見つけ、精励するにつれ、親は、相手にされなくなる。子が自分の世帯をもつと、なおさらである。
小津安二郎の「東京物語」でも、尾道に住む老夫婦が東京へ旅行に来たとき、長男・長女からほったらかしにされたのも同様だろう。
子が正月に来て、また帰っていくのは正直さみしい気がする。
しかし、だからと言って、子をいつまでも自分の思いどおりにすることはできないことはわかっているし、むしろ子の成長だと思う。孫ができると変わってくるかもしれないが、それまでは、ちょっとしたエアポケットのような状態だと思う。気持ちの点で、準備が必要であると思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年01月27日 | Permalink

岐阜大学教育学部付属小学校、中学校

 小学校は、40人クラスが2クラス、中学校は、40人クラスが4クラスであり、私は、9年間、そこで過ごした。
 入学は、完全な抽選で決められた。
 中学2年の夏頃から高校受験を意識した授業も増えたが、それまでは、本当に良い意味で実験校だと思われ、先生方も意欲的で、先進的であり、自由だった。
 小学校の理科の授業では、「100ミリリットルのアルコールと100ミリリットルの水を混ぜるとどうなるか。その理由はなぜか。」というような設問について、クラスの皆でディベートが展開された。
 「体重計の上で、飛び跳ねないで、『うーん』と下に力を込めたらどうなるか」という設問から、年度始めの理科の授業が始まって、ほぼ1年間をいろいろな設問、ディベートで終えたときもあった。今でこそディベートという言葉は普通になっているが、当時は、そのような言葉はほとんどなかったと思う。
 中学校では、平家物語を題材にした授業が続いたこともある。平知盛が出てくる場面は記憶に残っている。
 小学校、中学校の9年間の学校が、今日の自分の根本を作ったことはまちがいなく、このような機会が与えられたことは、本当に感謝している。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月18日 | Permalink

「悪人」 吉田修一原作

 「悪人」を録画し、テレビで見た。
 感じたことの1番は、人生は、それぞれの人のものであり、画一的な論評はできないということ。
 2番は、人生は、それぞれの人のものであるが、社会は、ルールを設定し、そのルールの中で動くということ。
 誰が悪人かという議論は、当然予想されるところだと思うが、議論を道徳のレベルまで広げたり、因果関係をしぼらないと、悪人は多く出てくることになり、その比較は興味深いものだろう。
 しかし、私としては、人生は、それぞれの人が自分の人生として受けとめるものであり、自分で進むものであって、簡単に論評できないという気持ちになった。
 テレビ局などマスコミの取材、恫喝も伴なった詐欺商法など、法律上の問題があり、また批判されるべきであるが、そのようなものがある前提で、人生を考えざるをえないだろう。
 社会のルールは、各人の人生をそれぞれの人のものとするにしても、その調整が必要であり、生まれてくるものである。ルールとしては、法、道徳などいろいろなレベルがある。
 土木作業員、清水祐一の行ないは、少なくとも法のレベルでは、しかるべき手続がとられることになる。
 洋服店店員、馬込光代の純愛は、今日の時代、ひかれるものがある。しかし、純愛は、日常生活から切り離された形となりがちである。朝日を2人で見るシーンは、美しいが、はかない。
 殺された保険外交員、石橋佳乃の父である理髪店店主が、チャラ男の増尾圭吾に怒りをぶちまけた後、店に帰り、妻と言葉をかわすシーンこそ、日常の純愛だろう。
 このように見るのは、弁護士としての経験に毒されているからかもしれないが。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月08日 | Permalink

子の結婚について、何らかの影響を与えることはできるか。

 このようなことを考えていると知れたら、子から、大いに嫌われるのだろうと思う。
 しかし、自分の老後の安泰のためには必要だと考える人もいるだろうし、誰しも一度くらいは考えてみたことがあるのではないかと思う。
 自分の人生を振り返ってみると、親から結婚について何か言われたことはないと思う。親の結婚の経緯を詳しく聞いたこともない。自分の人生(結婚)は自分で決めてきたという気がする・・・。
 しかし、親の話を聞く中で、親の価値観を知る機会はときどきにあったと思われ、また、親の期待に沿えるところは、あえて逆の行ないをせず、素直に生きてきたので、どこかで誘導されてきた面もあると思う。
 結局は、親の立場からすれば、親のねらいをどのように表現するかという問題のように思われる。子は親の影響を必ず受けるものと思われ、それが「血は争えない」ということのようにも思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年07月04日 | Permalink

子育てを行うのは誰か。

 母親も働く時代になったとはいえ、子と接する時間が一番長いのは、母親だろう。したがって、子(孫)がどのように育つかについて一番影響を与えるのは、母(嫁)であろう。
 父親の立場として、子育てを母親(妻)に委ねることができるかどうかは、実は大きな問題であり、離婚の際などに問題が明らかになってくることが多いと思う。
 親権者(養育監護権者)がどのように決められるかは、ここでは述べないが、躾ができない親に子育てをまかせたくないという気持ちを聞かされることが多いように思う。
 子が家から離れて生活するような年齢になって、初めて気がついたことは(お恥ずかしいが)、男親にとって結婚とは、子育てをまかせる人を決めることだったということである。父親として、それなりに子と接してきたし、それなりの影響を与えたとは思うが、母親の影響とは比べようがない気がする。父親は、子に対する知識も観察も会話も断然少ないのであり、これはいかんともしがたいところがある。
 父親としては、子が何か尋ねてきたときに備えて準備するしかないのではないかと思う。
 このような親子の関係は、今度は、孫との関係でも当てはまることとなる。子がどのような結婚相手をどのように見つけるのかという点について、なすすべがないのだろうかと考える。自分の時代とは異なっていると思うが、自分にとっては初めての経験であり、経験者の話を聞きたいところである。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年06月22日 | Permalink