ファミリーをどこで感ずるか

 家族は、子供が幼少のときから、独立するときまで、色々な段階がある。したがって、いつも一緒というわけにはいかなくなる。一緒にいるという団欒のみに価値を置くのではなく、家族のいる場所が別だとしても一体として感じられることを考えるべきだろう。

 それでは、家族が一体であることを感じるのはどのような時だろうか。
 各人が自分の役割を理解し、それを果たすことにより、全体として機能していることを実感することが必要だろう。その場合、何かの苦難があり、それに向けて家族が団結している場合もあるだろうが、そうした対象がはっきりしない場合もある。外に苦難があればまとまりやすいだろうが、そうでない場合が難しい。
 しかし、あえて外に苦難を見出す必要はなく、平常時こそ家族の豊かさを実感すべきだろう。
 家族の一員が自分の道を歩み始めることは、家族が新しい段階に入ったことであり、それだけでも豊かさと言って良いだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年10月27日 | Permalink

残そうとする気持ち

 草間彌生の版画集に「かつての愛の億万のきらめきよ 死の静寂のしじまにそれらは一陣の風のように消えてしまった」とあった。草間彌生がどのような気持ちでこの文章を綴ったのか詳しくは知らない。
 人間の命には限りがあることのはかなさを述べたようにも思われるが、それで良いとする諦めの念も感じられる。しかし、その中で作品を通して、少しでも自分の感ずるところを残そうとする作家の姿も、改めて印象づけられる。
 その作品すらいつかは滅失し、忘却されていく運命なのかもしれないが、少しでも残そうとする気概に人間というものを感ずる。
 何も残さなくても構わないと考える人は別として、作品は記録であり、記録によって次の人々は考えるものだと思う。
 自分の仕事も、全て作品であり、記録されていくものだと思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年07月27日 | Permalink

家族のあり方

 子供が家に帰ったとき、お母さんがいる方が良いといえるか、この点は、賛否両論のあるところだろう。
 男性が外で働き、収入を上げ、女性は家の中を切り盛りするという、従来のモデルは、近頃くずれていると思われるが、意識の中に根強く残るところがある。
 このような問題は、それぞれの家族の状況に応じてどうするか決めるしかないだろう。それが、世の中の多様性というものだろうと思う。
 むしろ問題は、ある人が、自分が家に帰ったときにお母さんがいたことが良かったと思い、自分の場合もそれを無理やりにでも実現しようとすることだろう(またその逆もある)。自分の経験を絶対視しないで、現状をありのままにとらえ、柔軟に判断するべきだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年06月04日 | Permalink

子供の巣立ち

 進学・就職など、子供が親元から離れることの影響は大きなものがある。
 仕事柄、いろいろな親子関係を見てきたが、親というものは、子がいくつになってもいつまでも子供だという感覚が残る。親子とはそういうものだと感じてきたし、そのことへの反省も自分なりにしなければならないだろうと感じてきた。 
 しかし、子供の巣立ちは、意外に気持ちの面で大きなインパクトがある。子供は、ときどきは帰ってくるから、まだ完全に巣立ったものではないという感覚もあるが、いや、もう巣立ってしまったのだという感覚もある。
 子育ての期間は、大変だった(特に母親は)と思うが、子供が巣立つと意外に短かったという気持ちもある。
 このような感慨は、経験してみないとわからないところであるが、これまで親から聞かされたこともなく、既に父母のない自分としては、どんな風に感じていたか尋ねてみたかったところである。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年05月25日 | Permalink

高砂(たかさご)の世界

 能の作品の1つである高砂は、結婚披露宴の定番であるが、この年齢になるまで、その世界を実感として受けとめたことがなかった。
 先日、飛騨高山に旅行したとき、一位一刀彫の彫刻を改めて見つめてみて、学生時代には、おじいさん(翁)とおばあさん(嫗)にすぎないと一瞥しただけだったが、じっくりと見ることができるようになった。
 翁と嫗は、高砂の浦で松の木陰を掃き清めるところからスタートすることすら知らなかった。一位一刀彫の彫刻は、2人共掃除道具を持っているのだ。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年04月22日 | Permalink

親は子の職業を決められるか。

 私は、親は子の職業を決めるべきではなく、また、決めることはできないと考えている。子が職業を決めるにあたり、何らかの影響を与えることすら、慎重であるべきだろう。

 自分の職業は自分で決め、自分で切り開いていくという原則は堅持されるべきである。
 したがって、親の職業が成功した企業体となっているからと言って、子にその「承継」を求めるべきではない。現在成功しているからと言って、未来は不確定であって、現在の成功で子をコントロールするべきではない。「自分で決め、自分で切り開いていく」という点に、親は、目を配るべきだろう。

 子から職業についてアドバイスを求められた場合、自分の経験や意見を語ることになるだろうが、親が子に代わって、親が意見した職業の世界に入っていくわけではないから、答え方も自然に決められていくことになるだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年03月09日 | Permalink

子供の社会化

 日本の乳幼児は、欧米との比較で、母親と共に過ごす時間が多いことが指摘されている。
 ところが、最近の日本では、必ずしも、そうでない母子がいて、乳幼児期に、本当に密な情緒交流がなされないことが問題となって現れていると考える人がいる。密な情緒交流があることによって、攻撃性や不安の点で、日本の幼児は、怒りっぽくもなく、こわがりでもなく、非常に周囲とうまくやっていくと指摘されている(正高信男著「ケータイを持ったサル ?『人間らしさ』の崩壊?」20頁)。
 しかし、母子密着型の子育てにも弊害があることが指摘されている(同26頁)。日本では居心地のよい母子密着状態が延々と継続するため、子供は、社会的な交渉が少なくなり、子供の社会化に悪影響を及ぼすというものである。
 たしかに、アメリカ社会を経験した人の話をきくと、アメリカでは、大学生になれば、子供は、男女を問わず、両親から独立して生活するのが当然という感覚がある。学費も、子供が自らアルバイトをして稼ぐのが当然という感覚もある。
 これに対して、日本では、親元から通学できる大学の場合、親元から通うことも多い。アルバイトの点は、大学の授業よりもアルバイトをしたいという学生も多く、アメリカとの差はあまりないようにも思われるが、その精神は大きく異なるのかもしれない。
 乳幼児期から大学生の時期まで、親子の距離をどのように持つかは、改めて考えてみるべき問題であり、実行が伴う必要がある。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年02月20日 | Permalink

人生移行の停滞

正高信男著「ケータイを持ったサル ?『人間らしさ』の崩壊?」中公新書30頁

 自分のこれまでをふりかえってみて、交遊関係が移行することは気がつく。
 これまで交遊のあった人全てと交遊を続けることは、まず、できないことだろうと思う。進学、就職、起業の中で、付き合う人は変化していく。この変化は、人との別れでもあり、さみしい一面もあって、昔からの仲良しは、いつまでも続いてほしいという願いにもなる。
 しかし、自分の活動範囲が変化することにより、自分は成長していくと考えられるし、また、自分が成長するためには、自分の活動範囲を変えていかなければならない。
 正高信男氏は、久保田万太郎の句である「竹馬やいろはにほへとちりぢりに」を示し、「ともにいろはを学んだ竹馬の友も、やがてはちりぢりになっていく、さみしいけれどそれが人間の『健気』(けなげ)というものだ。」ととらえている。
 この『健気』(けなげ)という点こそが、人の生き方としてポイントだろうと感ずる。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年02月12日 | Permalink

家族の心情

ファミリーのことを考えるとき、家族の心情にあった判断をすることは、必要だと思う。

ご先祖様に「よくやった」と言われて、ゴールしたい。
子孫の活躍ほど、うれしいものはない。
こういった気持ちは、大事にしたい。

しかし、「兄弟は、公平に扱いたい。」「兄弟は、公平に扱われるべきだ。」という考え方は、検討が必要だろう。
昔、相続で、兄弟が田を分けることを、「たわけ」といって、たわけ者のすることと警戒していたと聞く。

家族の心情は、尊重するものの、誰かが、合理的な判断をしなければいけない場合があると考えるべきだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2008年10月16日 | Permalink

ファミリーの歴史の編纂

人生の後半になったら、自分の歴史を含めて、ファミリーの歴史を編纂してほしいと思う。

自分の歴史資料は、余分なものまで残してしまうし、逆に、自分以外のファミリーの資料は、なかなか集められないが、ある物は捨てられない。
しかし、このような傾向があることを踏まえ、大胆に、取捨選択してほしい。

時間の経過とともに、何が残すべき資料か、判明すると思う。時間の経過の中で、徐々に判断してほしいと考えている。


投稿者名 管理者 投稿日時 2008年08月28日 | Permalink