時間泥棒

ミヒャエル・エンデの「モモ」に灰色の男たちが登場する。灰色の男は時間の倹約を始めることを勧めるが、結果的には時間が盗まれていたと考える。
それは、近代において時間の節約をして得をするのは、個人ではなくシステムの側だとされる(NHK 100分de名著41ページ)。
時間泥棒と言うのは、いろいろな場面で想定できるが、私にとっては、長過ぎる本も時間泥棒の1人だと思える。
自分の時間を楽しみに使うように本を読むのであれば良いかもしれない。しかし、本を読むことで自分の行動を変えたいと言う場合は、長すぎる本は、理解するのに時間がかかり、行動に移す移せなくなってしまう。
長すぎるだけでなく、本の展開の仕方がよくわからない場合、後からその本を読み返して、参考になる箇所を見つけることが難しくなってしまう。
展開の仕方がわからない本と言うのは、問題をゴロゴロと転がしたように書いた本だ。
実用のためには、論理の展開が読み取りやすいこと、同位のものとして並べられるものが何かわかりやすいこと、が必要だ。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2021年05月10日 | Permalink

基本書

子孫や後輩のために、基本書になるようなものをまとめる必要があると感じている。
どのような本を読むかと言う事は、それぞれの人の判断に任せられるべきだと思うが、学校での教科書のように、その知識があるとその後の人生がより良くなるものは必要だろう。
学校で使われる教科書は、多くは卒業してしまえば二度と読む事は無いことがほとんどだろう。重い教科書をランドセルやカバンに詰めて学校に通ったことが、思い出としては残るのかもしれないが、何らかの効用として後の人生に役立つものである必要がある。
こうした観点から考えると、学校の教科書は、根本的に作り変える必要があると思う。
例えば歴史であれば、政治的な出来事が大昔から時間順に並べられている。
しかし、現在ある有用なものがいつからできてきたのかと言う判断の仕方が必要だと思う。
国語であれば、人に何らかのものを伝える文書は、どのようなものである必要があるかが明確であるべきだ。
英語や数学は、その後の人生によって人それぞれであろうが、道具として使える必要がある。
地理、地学は、これも道具として使える程度で良いのではないかと思う。
古文、漢文は、専門家への入り口としてある程度のものがわかれば良いのではないかと思う。古文の文法などは、一般の人がそれに習熟する必要は無いと思う。
それよりは、古典を現代語訳してもっと読みやすくし、現代に利用する道を探した方が良い。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2021年04月22日 | Permalink

日記

日記は、気がついたことをメモする役割に変わっている。
しかもスマホを使えば、音声で入力ができる。
気がついたことをコレクトしていくのが日記だ。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2021年03月29日 | Permalink

ペーパーレスでの書き込み

最近は、ペーパーレスが進む中で、書き込みをする場所が電子化された状態になっている。
ペーパーに記入したり、新聞記事や雑誌等の切り取りであると、保管場所を探すことが難しいことがある。
ペーパレスで書き込む先は、ある程度集約されており、分散を防ぐことができている。

しかし、これまで作ってきたファイルは、物として楽しむことができるだろう。
ペーパーレスが進む中で、情報を物として取り扱うことは、面白いところもある。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2021年03月26日 | Permalink

遺産分割

遺産分割で揉めることが問題となっている。
問題は、決められない事にある。
 遺言は、遺留分を考えて行えば決められる制度である。
こうした場合、会社制度の利用を考える必要がある。
住宅を個人所有する事は考え直すべき。
 税法上の特典もあるが。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2021年01月08日 | Permalink

必要な分量

初めからある程度の分量が前提とされたものは、注意が必要だ。
例えば本。
商品としての価値から、ある程度の分量が昔から想定されていた。
しかし、こうした分量が当然と考えることは改めるべきだ。
必要な分量に限定する必要がある。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2020年12月10日 | Permalink

紙ベースの資料

紙ベースのファイルの整理をしていると、現在の自分の課題を整理できる。
課題の歴史を知ることもできる。
課題であると考えていたものが、ほとんど必要のないものとなっていることに気がつくこともある。
紙ベースは、かさばるし、扱いにくい点もあるかもしれないが、取捨選択、並べ替えの点では便利だと思う。
こうした機能ができるのはTrelloトレロだろう。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2020年10月19日 | Permalink

物に対する価値観が変わってきている。

故人や引退した人が集めたコレクションは、残された人に関心がないものであると、ずいぶんぞんざいに扱われる。
その原因は、下記の通り。
 保管するスペースが足りない。
 立体物は、かさばるものであるのに、残し方が考えられていない。
 コレクションが、将来残される人の目に触れていない。
 由緒や集められた理由が明確でないと、関心をもってもらえない。
残された人に大事にしてもらうためには、上記の逆をしなければならない。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2020年10月13日 | Permalink

過去の記録をどこまで残すか?

過去の記録は、先祖の苦労として子孫に読んで欲しいためである。
しかし、どの範囲で残すかは、常に葛藤を生じる。誰しも保管を仕事として生きているものではない。本来の仕事の傍らで判断し、保管しなければならない。
どの記録を残したら良いのかという点について、現在の時点ではわからないことも多い。
しかし、記録が多すぎても読まれることはないため、制限は必要である。
時間をおいて整理し直すことは必要だと思う。
しかし、そのときどのように考えて保管したかということも重要な場合もある。
保管場所の問題はいつも生じる。
しかし、紙ベースで保管をしなければならない時代は過ぎ去るだろう。電子空間であれば、スペースの問題は、まずないだろう。
ただし、物そのものが持つ歴史的存在感は、重要である。物として残すことも考えるべきだ。
記録は、自分だけで利用するものではない。後継者と共同利用してこそ意味がある。
しかし、時空を超えて、子孫・後継者と共同で利用することもありうる。
記録は、データとしての意味合いのものもある。
預金通帳は、電子化されれば、保管のためのスペースは不要だ。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2020年09月28日 | Permalink