昔からある物、今ある物は、いつまで残るのか?

昔からの物というだけで展示されたり、保管されたりしている物がある。
今残っている物が少ないこと、昔を想像することができること、が理由だろう。

物を捨てる技術と言ったり、物を持たない生活と言ったりして、物の価値が低下しているような言い方をよく聞く。

物を保管するスペースが少ないことが、これらの言い方の根本にある。

しかし、保管スペースがもっとあれば、このような言い方をする必要はなくなるだろう。

歴史の中で(長い時間の中で)、不要な物を処分していけばよい。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2019年04月15日 | Permalink

物を購入するときは、利用場所(展示場所)と保管場所の2つをを明確に確保してから、購入するべきだ。

大きな電化製品など、「壊れるまで使い、壊れたら破棄する」のであれば、利用場所(展示場所)と保管場所は一致する。

しかし、「壊れるまで使い、壊れたら破棄する」のではないのであれば、利用場所(展示場所)と保管場所を明確に確保するべきだ。
美術館を思い起こせばよいだろう。

ところが、「壊れるまで使い、壊れたら破棄する」のではないのに、利用場所(展示場所)に置きっぱなしということは、よくある。
家の中が片付かない原因は、ここにある。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2019年03月22日 | Permalink

相続で残しておいて欲しいもの

財産的価値があり、換価しやすいものは、多くの人が残してほしいと考えているだろう。
現金、預金、上場株式

換価しにくいものでも、財産的価値があるものは、残してほしいと考えるだろう。
不動産
 残された人が使いにくい大きさ、間取りであると、敬遠されるが、処分してしまえばいいとも言えるだろう。

絵画
 残された人の趣味に合わないときは、処分されてしまうだろうが、金額の問題だろう。

非上場株式
 今後も会社を支配していきたい人・それを支援していきたい人にとっては、重要なものだが、そうでない人にとっては換価に困るだろう。

財産的価値があるかどうか分からないものは、困るだろう。
書籍、資料、写真、記録など
 こうしたものは、残された人が困るから、生前に処分するべきだという意見もある。

 しかし、実は、こうしたものこそ、これからは大事になると考えている。
  処分されてしまうと、残された人にとって、再現できないからだ。
  戦争をしてはならないのは、こうしたものを残し、歴史を伝えるためだ。

歴史を伝えることが、これからの戦略として非常に重要だ。
この観点から考えると、動産も、何を・どのように残すかはよく考えられるべきだ。
残せないのは、多くはスペースの問題があるからだ。スペースがある限り、残していき、将来の世代に、始末の仕方についての判断を待つのがいいと思う。
将来の世代にその判断を求めることは、余分な労力をかけることになるという意見もあるだろうが、何もないことでも将来の世代は困るだろう。

動産は、ただ残されても、その意味が分からなければ、将来の世代は困る。何らかのコメントも同時に残すべきだろう。
形見分けがあるように、亡くなった人が使っていたものは、その歴史が残っていると思う。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年12月10日 | Permalink

未来の人は、私のことを、記録文書を残した人だと思うかもしれない。

 記録を残したといっても、あまりに煩雑・大量であり、読む気がしないかもしれないし、読む人の時間を奪うのではないかと恐れている。
 生きていて、いろいろなものに接し、自分が気がついたことを後進に伝えたいと思う。しかし、自分の現在を生きることにも時間をかけざるを得ず、記録を整理する時間も限りがある。
 気がついたときに、簡単に印(しるし)を付け、時間があるときにコメントし、体系化する。後に必要がないと判断すれば捨て、読み返して別のとらえ方ができれば、またコメントする。体系が完成したと思っても、時間が経過すれば、体系は修正するしかない。
 ファイルの背表紙に書かれた題は、それが集まれば、現在の自分の体系である。ファイルの中身は、離合集散し、ファイルの背表紙に書く題は、変わっていく。自分の体系は、常に変容していく。
 「過去を見る眼が新しくならない限り、現代の新しさは本当に掴めないであろう。」(「歴史とは何か」E.H.カーⅳ頁)という立場から、記録の整理もし、未来を考える。これをどこまでも繰り返していくつもりだ。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年07月11日 | Permalink

自分の統一性

 自分は、多くの可能性の中から1つを選びながら生きている。その連続だ。こうした生活の中で、自分の全体を統一的に表現することは難しいと感じている。つい、もっと別の選択があったのではないかと考えてしまうのだ。
 記録は、できる限りとっているが、昔の記録は、それが自らが書いたものでさえ、忘れてしまう。したがって、ますます自分の全体を統一的に表現することは難しい。
 しかし、一人の人間が考え、行動した結果には、何かしらの統一性が読み取れるだろう。それは、本人にも分からないところだ。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年05月25日 | Permalink

後継者に何を教えるか?伝えるか?

企業が掲げる理念・ビジョンは、重要だが、まとめ方が難しい。このため、伝えることも難しくなる。
また、観念的には教え・伝えられても、その実行は、取っ掛かりが難しく、実行に移しにくい。

そこで、理念・ビジョンは、普段の行動から積み上げていくことを考えるべきだ。
例えば、書類の扱い方1つをとっても、その企業なりのやり方があるだろう。それを教え・伝えて、実行に移してもらうべきだ。

企業は、多くの要素により成り立っているが、それを具体的に明示して、企業のあり方を具体的にする必要がある。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年03月15日 | Permalink

スペースは、資料を保管するためには必要だ。

これまでスペースがあったことにより、多くの資料・物品を保管できた。
 もちろん、保管する価値があるかどうか決められるまで、当面保管するという選択肢もある。

一族にとって、過去の資料があるかどうかが、決定的な差となると考えている。
 一族の未来を考えれば、必要な資料・物品を保管することを心掛けるべきだ。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2017年11月29日 | Permalink

残すもの捨てるもの

自分が関与していない記録・資料は、容易に捨てられる。
 自分に影響した部分のみ残せばよい。

父母が集めた絵葉書は、難しい。
 父母が眺めた時代の景色が残されていると感じるし、集め、残した理由も考えてしまうからだ。

何か影響することがあるかもしれないと考えて残すことは、いいと思う。
 しかし、後になって、なぜこれを残したのだろうと疑問に思うことも多い。

定期的に配られるものは、残す方向で考えてしまう。
 将来に広がりを感じてしまうからだ。
 しかし、多くなりすぎないうちに、残すか捨てるか考えるべきだ。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2017年11月21日 | Permalink

何かをどこかに仕舞い込むのは、穴に埋めたタイムカプセルをもつことと同じだ。

後にタイムカプセルを開けて、時間の経過に驚くことを楽しむのであれば、それも良いかもしれない。

しかし、常に観察を続け、その時々に役立てようと考えるのであれば、仕舞い込む(封をする)のではなく、すぐに見ることができるようにしておくべきだ。

特に、大事なもの、自分では完成されたと考えるもの、の場合、仕舞い込む(封をする)ことをしがちだ。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2017年11月07日 | Permalink

コレクションした物の運命

相続した人の間で、亡くなった人のコレクションした物をどうするかは問題となる。
亡くなった人が、大事にしていた物や気に入って集めた物でも、相続した人には困るものも多い。結果的に処分されることも多い。

相続した人は、整理する立場であり、どれを残し、どれを捨てるかの区分は、時間がかかって仕方がなく、とてもやりきれないだろう。

また、次に建物を利用する人にとっては、残されても仕方がない物は、処分するべきだという考えは十分ありうるだろう。

亡くなった人が集めたものも、お金にあかして買いまくっただけで、一度も使ったこともないもの、古くなり使いようがないものばかりだということもある。

相続した人が、亡くなった人が集めたものを時間をかけて1つずつ見て、ゆっくり、捨てるものは捨てていくという方法もあるが、整理する立場に立てば、まず大胆に処分しなければ、後が使いにくいのは、もっともだと思う。

結局、自分が集めたものは、次の世代には、このような感覚で対応されるのだろうと思う。
物の運命は、その人限りという面がある。

コレクションした物を、一家の共通基盤とするためには、本人が元気なうちから、子孫にも利用してもらって、楽しんでもらうしかない。
物は、共有で利用するしか、引き継がれない。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2017年10月20日 | Permalink