富豪と世捨て
日本経済新聞2009年9月6日に、島田雅彦氏の「富豪と世捨て」が掲載されていた。
(この記事を巡っては、何人かの人がインターネット上に感想を述べておられる。)
「ヒトが一生を通じて味わえる快楽の分量も決まっていて、金持ちがより多くの快楽を味わえるというものでもない。快楽は金で買うものというより、脳で作り出すものだからだ。誰しも左右一対の脳を持つ。それを使うのに金は要らない。」という点は、同意できる。
しかし、富や富豪のイメージは、画一的で、浅いのではないかと感ずる。
「資本主義の覇者は資本主義によって滅びた物を復活させ、その罪を償う義務がある。罪滅ぼしにこそ金を使え。」との点は、「富豪になるにはかなり利己的に、他人を蹴落としたり、人倫にもとることもしてきただろうが、十分な財産を蓄えたら、あとは世のため人のためにそれを使い、魂の平安を得るのが無難だ。」との点を前提とした記述なのだろう。しかし、この記述が当てはまるケースもあるとは思うが、多数ではないだろう。
私は、富(マネー)は、一つのパワーではあると思うが、脳(考え方)も、それ以上のパワーであると考えている。こうしたパワーを、人に迷惑をかけず、自分なりに使うことは人それぞれであると思う。
「その価値を理解しようがすまいが、富豪たちが投資目的で美術品を買いあさった時代があった。その流れで現代美術のゴミが高値取引されたけれども、田舎の野山を歩けば、そんなものよりはるかに高い価値を持つ石や木がいくらでもある。」との点も、正確な理解に基づく記述とは思えない。
ゴミである現代美術もあるのかもしれないが、現代美術をいくらで買うかは自由であるだろうし、人それぞれである。私は現代美術がわかったとは思っていないが、作家が作り出した世界は十分に理解されるべきだと思っている。
富や富豪のイメージを、もっと深めていく必要があると、改めて感じた次第だ。