新しい街に来て、何を考えるか?
ここで生活するとしたら何を選ぶかを考える。
こうすることによって、すべてのものを実感を持って受け止めることができる。
ここで生活するとしたら何を選ぶかを考える。
こうすることによって、すべてのものを実感を持って受け止めることができる。
進める方法が複数あるときは、そのうちの少なくとも3つを利用して比較すること。
これをすることによってその方法の良し悪しが分かる。
コロナ禍により賃料収入が減る可能性があることを受け、従前通りの賃料収入があることを前提とした審査が通らなくなっている。
コロナ禍により社会全体が相当な落ち込みが起こることを前提とした審査となっている。
こうしたことを考えると、金融の道はかなり厳しくなっていると考えざるを得ない。
景気の落ち込みはかなりある。
その姿は、モナリザの絵だけを残して、それ以外の全ての絵を焼却処分してしまったような世界に生きているようだ。
電話をかけてくる人は、要注意である時代となった。
電話は、その話はまとまっておらず、しかも相手方の時間をその都合を聞かないで拘束する。
自分も、同窓生であるとか、会合で一緒であったという理由で電話をかけることは、要注意だ。
世間では、ものは少ない方が良いという発信が強いように思われる。
確かに、自分の空間をすっきりさせることの意味はあると思われる。
そのような中で、情報を紙ベースで持つことは、意味があるのだろうか?
電子化できるものは、全て電子の中で処理するべきだという考え方は、強いだろう。
情報を紙ベースに置くことで「もの」となる。
ものは、人間が体で触れることができ、そのことにより頭の中だけの作用に限定するよりも、効果的な使い方ができる場合があると思う。
陶磁器の展示を見に行くと、作品とその横に作者の略歴等が書かれた小さな紙があることがある。
このような展示は、これまでいろいろとなされてきたところだが、こうした「もの」と紙との関連付けをどのように行うのかは、大事なところではないかと思う。
説明の紙は小さくて、ファイルに綴じることができないこともあり、ネット上に情報を置くことは重要だと思われる。
しかし、ネット上にばらばらとある情報を組み合わせて、新しい視点をどのように見つけるかという作業になると、ものとなった紙の媒体は重要だと思う。
ものを持とうとすると、それを収めるスペースが必要となってくる。スペースを持つ費用を考えると、できる限りものを持たない生き方は有効に思える。
しかし、ウェブ空間のみで十分に創造的な作業ができるのかという問題はよく考えるべきだ。
自分自身を考えても、本を収める棚以外に、9本の棚を利用している。
この棚に収めるものは、先祖から伝わるものであったり、自分が集めたものだ。
こうしたものを収めるスペースを持つことは、振り返ると有効であったと考えている。
こうしたスペースを十分に持っていたことで、ものを簡単に捨てられなかったというマイナスも確かにあるが、ものを集積することによって気がつくことも多く、その効果は大きいと考えている。
文章は、骨格のラインと、骨格のどこかを補充する内容等を明確に区別するべきだと思う。
骨格のラインは、それだけでその文章の論理の展開がわかるようにする。
骨格の補充は、骨格ラインから一文字下げて書くことにする。
物事の統合的な理解は大事だが、大きな問題については、その全体を考えようとしすぎるところに問題があるように思う。
大きな問題についても、それが自分とどう関係するのかに限定して考察すればよい。
このことによって省略できるところも多く、時間の節約になるのではないか。