古典を、現代語訳でよいので、もっと読むべきだ。

学校の授業は、古文の場合、古語にこだわりすぎていると思う。漢文の場合も、読み下しに力点が行き過ぎている。
現代語訳でよいので、もっと古典の全体を読むべきだ。そうすることにより、古典から得るものは多いと思う。
古典の一部分を、古語の意味や品詞の分解に気をとられて読むのは、結果的に、全体を読むことができなくなり、興味を失うのではないかと思う。こうした読み方は、もっと専門化した立場の人でよい。
全体を読むことにより、作者の根本の考え方をとらえた方が、身につき、役立てることができる。日本の文献であれば、日本の根本を知覚することもできるだろう。漢文であれば、当時の中国の考え方も理解できる。
お経も、本来、内容を理解するべきだと思う。声による響きを味わっても良いが、内容を理解してからだろう。
西洋では、宗教改革で聖書についてドイツ語訳が行なわれたように、日本でも、現代語訳が行なわれる必要がある。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2020年11月18日 | Permalink

本の中身を限定しながら読む。

本は出版される全冊数を読むことはできない。
1冊の本の全部を読むことすら困難だろう。
本は読むことに目的があるのではなく、本を読んだ結果として何か行動を起こすことに意味がある。したがって、1冊の本ですら読むことだけに時間を費やすことはできない。
こう考えてくると、1冊の本の読むべき場所を何らかの方法で限定しなければならなくなってくる。
読むスピードを上げて全部を読むという道もあり得るが、普通の人には、何か行動を起こすことを考えながら、同時に速読する事は難しいと思う。
限定の仕方は、厳密な方法を決める必要はなく、ざっくりしたものでいい。
気分次第で選べばいいし、全体の構成を考えながら選んでもいいし、たまたま読んだところを神様から与えられたものだと考えてもいい。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2020年11月09日 | Permalink

これからの事務所の条件

自宅は、就寝するところだとする。
仕事と遊びは、自宅の外に出て行うことが多いだろう。
自宅の外に出るのは、仕事や遊びは、それを行うことができる場所が別にあるからだ。
しかし、自分が事業主であるならば、少なくとも仕事は自宅で行うことができる。
ところが自分が事業主であっても、仕事は自宅とは別の場所で行うことが多い。これは自分にとって自由な時間を作るためだろう。家に残る人にとっても、誰かが四六時中居てもらったら憂鬱だ。
したがって、自宅以外に仕事の場所は残るだろう。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2020年10月28日 | Permalink

紙ベースの資料

紙ベースのファイルの整理をしていると、現在の自分の課題を整理できる。
課題の歴史を知ることもできる。
課題であると考えていたものが、ほとんど必要のないものとなっていることに気がつくこともある。
紙ベースは、かさばるし、扱いにくい点もあるかもしれないが、取捨選択、並べ替えの点では便利だと思う。
こうした機能ができるのはTrelloトレロだろう。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2020年10月19日 | Permalink

物に対する価値観が変わってきている。

故人や引退した人が集めたコレクションは、残された人に関心がないものであると、ずいぶんぞんざいに扱われる。
その原因は、下記の通り。
 保管するスペースが足りない。
 立体物は、かさばるものであるのに、残し方が考えられていない。
 コレクションが、将来残される人の目に触れていない。
 由緒や集められた理由が明確でないと、関心をもってもらえない。
残された人に大事にしてもらうためには、上記の逆をしなければならない。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2020年10月13日 | Permalink

山本五十六の名言

1 やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。
2 話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。
3 やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。
1とそれ以降では、ずいぶんと差があると感じる。
1が対象とする部下の姿は、あまりに受身だ。それだけ部下というものは、動かないものだということだろうか?
また、1以降は、あまり知られていないのは、そこまで来ている部下は少ないということだろうか?


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2020年10月05日 | Permalink

過去の記録をどこまで残すか?

過去の記録は、先祖の苦労として子孫に読んで欲しいためである。
しかし、どの範囲で残すかは、常に葛藤を生じる。誰しも保管を仕事として生きているものではない。本来の仕事の傍らで判断し、保管しなければならない。
どの記録を残したら良いのかという点について、現在の時点ではわからないことも多い。
しかし、記録が多すぎても読まれることはないため、制限は必要である。
時間をおいて整理し直すことは必要だと思う。
しかし、そのときどのように考えて保管したかということも重要な場合もある。
保管場所の問題はいつも生じる。
しかし、紙ベースで保管をしなければならない時代は過ぎ去るだろう。電子空間であれば、スペースの問題は、まずないだろう。
ただし、物そのものが持つ歴史的存在感は、重要である。物として残すことも考えるべきだ。
記録は、自分だけで利用するものではない。後継者と共同利用してこそ意味がある。
しかし、時空を超えて、子孫・後継者と共同で利用することもありうる。
記録は、データとしての意味合いのものもある。
預金通帳は、電子化されれば、保管のためのスペースは不要だ。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2020年09月28日 | Permalink

もっと略式の説明もあるべきだ。

コロナ対応のために、例えば手洗いの説明をする時、隅々まで十分な時間をかけて洗うことを求めている。
しかし、それは、源氏物語を一文字もおろそかにせず読みなさいと言っているように聞こえる。
物事には、完全なやり方もあれば、略式のやり方もある。
最初から略式のやり方を説明してしまうと、多くの人は、そこからさらに手を抜いてしまうという懸念があるのかもしれない。
しかし、それは、上から目線であり、人をみくびった考え方だ。
略式であっても全く効果がないわけではないので、その点の説明はするべきだろう。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2020年09月15日 | Permalink

無人企業の運営で進むのか、チームを率いて進むのか。

無人企業といっても、誰かがマネジメントをしなければいけないので、個人ないしその家族の企業と言うことだ。
これに対して人を雇用する場合、それはチームの問題となる。
無人企業で行くのかチームで行くのかは、なかなか難しい問題だ。
人を雇用すると言うのは、労働法では、雇われる人は保護されており、その規制は経営者にとって簡単ではない。
不適当な人を雇用した場合、それに関わる労力は大変なものとなる。
しかし、大きなビジネスを行うためには、自分1人では簡単なことではなく、人を雇用する必要がある。
起業家は、常にこのジレンマがある。
企業が、個人事業主に委託するという(雇用ではないとする)形式を考える人も出てくるだろうが、雇用かどうかは、形式だけで判断されるものでもないだろうとは思う。しかし、形式を整え、行けるところまで進むと考える人が出てくるだろう。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2020年09月09日 | Permalink