自分を形作る成分は、何だろう?
自分を知らせるものとしては、自分が書いたもの、読んだもの、集めたもの、写真・映像などだろう。
その集積から知ってもらうしかない。
書いたもの、読んだものは、ある程度、カテゴリにより分類している。
この分類の仕方も、自分を知ってもらう材料だ。
こうした材料から、自分を構成してもらうしかない。
その点で、成分だといっていい。
自分を知らせるものとしては、自分が書いたもの、読んだもの、集めたもの、写真・映像などだろう。
その集積から知ってもらうしかない。
書いたもの、読んだものは、ある程度、カテゴリにより分類している。
この分類の仕方も、自分を知ってもらう材料だ。
こうした材料から、自分を構成してもらうしかない。
その点で、成分だといっていい。
自分で使える・楽しめる以上の数を求めるのは、どこかで飛躍がないとできないことだ。
「使える」と「楽しめる」とでは、その範囲に差があるかもしれない。
ちょっと楽しむだけならば、使いこなすよりは、対象を広げることができるだろう。
その飛躍があることによって、多くの人に役立つことはあるから、飛躍は意味がある。
長々と書かれた文章の世界は、時間をかけて楽しんでもいいとは思うが、内向きな生き方だ。
新聞は、紙で見る時代ではないのかもしれない。
電子版がある。
検索は、電子版を利用することになる。
しかし、切り取った記事を集め、どこかの時点で自分なりのカテゴリを設定して、分類することも意味があると考えている。
カテゴリは、適宜見直し、分類も変えていく。
この方法は、無体物を物として扱うことに結び付く。
ものとして扱うことで、1枚の絵の中の、絵の具の一筆のタッチのようになる。
記事を集めたファイルをながめる(読み返すよりも作業時間は短い)ことで、新しい気づきが生まれる。
建築家は、どうしても見栄えを重視すると思う。
もちろん、見栄えの良い家を求める人が多いからだろう。
しかし、生活感のない家を見ると、そこで何をするのだろうと思ってしまう。
また、その大きな家に、何人で住むのだろうと思ってしまう。
家族の構成は、時間とともに変化する。
子供は、独立していく。
配偶者を亡くして、一人で住まなければいけないことも想定する必要がある。
自分も出ていくこともありうる。
特別に設計した家は、他の人が利用しにくい。
大きすぎることもある。
冷暖房、掃除など大変だ。
大きな家に住みたいという人は、自分で設計したいと思う。他人が設計した家には住みたくないようだ。
大きな家は、空き家になると、壊されることが多い気がする。
結局、個人の住宅は、他の人も利用できるように設計されるべきだと思う。
家は、見栄えではなく、ある程度抑制された設計の中で、住む人が十分に利用することを考えるべきだ。
価格、面積、収益性などで判断することも大事だが、その物件が持つ存在感をとらえることも大事だ。
存在感とは、直感的な判断で、大きさ、外感、印象などの総合的なものだ。
場所や収益性を見て、候補と判断して、現地に赴いたところ、使える部分の大きさ、不便さを感じてしまったことがある。
現時点の収益性だけでなく、その物件が持つ、そもそもの大きさ、能力に着目することも考えるべきだ。
その物件のエリアが持つ華やかさに目を奪われることもある。
しかし、その華やかさだけでは、利用を続けることは難しいことが出てくる。
もちろん大きいだけでいいのではない。
そのエリアでの存在感が重要であり、その判断はきちんとしなければいけない。
眺望も重要だろう。
立派な建物だが、樹木の多くを伐採してしまい、鉄と石の塊のようになっている。
樹木は、新しく植えられているが、ひょろひょろっとした大きさだ。
苗木でこれから大きくなるというものでもない。
庭は、水やり、雑草取りが大変だ。
樹木や草花をじっくり眺めることもしなくなった。
名前を知っても、だからどうなるというものでもないと思うのだろう。
マンションなどでは、自分で手入れをするのではなく、管理者が専門の業者に依頼するだけだ。
しかし、こうした無関心では、生活を楽しめないだろう。
これからの人々が求める施設・設備は何か、を考えることに尽きる。
もっと具体的に言えば、昼間はどこで過ごし、夜間はどこで過ごすことを求めるか、仕事日と休業日で、それぞれ分けて考える。
街の雰囲気を示すとき、大学との関係が大きな意味を持つ。
昔は、お寺が大きな意味を持った。
初等教育は、寺子屋だったかもしれないが、その後の知識・知恵はお寺だった。
ところが、お寺は、葬式仏教になってしまった。
大学も、学生相手に卒業資格を認定するだけで、入学することは苦労もあるが、卒業は楽にできるのであれば、学生生活は、バイトと遊びだけになる。
大学も、今の機能に安住していると、いずれお寺がたどった道を歩むことになる。
ただ、大学は、若者が集まり、環境も緑が多く、アドバンテージは大きい。
子どもの通学する学校
質の高い公立学校があることは、アドバンテージだ。
その校区の世帯の年収で判断することも1つの方法だとは思うが、参考までに。
病院
近くにあれば安心。
デパートなど物販施設は、経済成長の時期は、皆が楽しみに買物に寄った。
しかし、物ではなく、体験が求められる時代になると、デパートは頭打ちになった。
店舗は、ショールームであり、はじめて買う物など、実物を確認したいときに行くだけになる。
定番商品は、ネットで買う方が、お金も時間も節約になる。
美術館、画廊、劇場、コンサートホール
自分の楽しみを深めるためには、近くにあった方がよい。
静かであること。
自動車や鉄道の音は、気になる。
その点、タワーマンションの上層階は、静かだ。
緑の多いこと。
草木は、季節の変化を感じさせてくれる。
草取りは大変だが、発想を変えることもできる。雑草と言われる草も、花をつける。
ゆとりあるスペース。
必要最小限のスペースと物で生活することも楽しめるが、ゆとりあるスペースがあれば、落ち着いた環境を実現できる。
仕事中、疲れ・眠気を感じたとき、人目を気にせず、長めのソファーにごろりと横になれば、回復する。
初めて不動産を取得する場合、多くは自宅として利用することを考えてだろう。
私もそうだった。どうしてもマイホーム志向がある。
しかし、自宅を取得してから、収益物件を取得してみると、振り返って、自宅と収益物件の順序を考え始める。
自宅の形は、そもそも、年齢とともに変化する。
親と一緒に生活しているとき、独り身のとき、結婚しているとき、子供が家にいるとき、子供が独立するとき、老夫婦になったとき、独り身の老人となったときなど。
自宅は、自分の仕事との関係でも、変化する。
生まれ育った故郷がいいという人もいるだろうが、自分の仕事との関係で、住まいは移転していくべきだろう。
収益物件があれば、気に入らない仕事をする必要はなくなることに気が付く。
収益物件は、次の収益物件を取得することを容易にする。
自宅は、自分たちで使わなくなったときは、人に貸すことができるものにするといい。
そのためには、規模、間取り、デザインなどを特殊なものにせず、適切な賃料で借りてもらいやすいものとする必要がある。
コンクリートの中の住まいからコンクリートの中の仕事場まで往復し、その時間を最短にすることだけを考える生き方ではなく、豊かな自然や、物語のある物・環境を、どのように作るかを考える生き方をした方が、豊かだと思う。