会社を大きくするためには、量へのこだわりが必要だ。
成功した形の、あくなき繰り返しで、会社の上場は、考えていたよりは容易だと思える。
成功した形が繰り返されることで、ビジネスモデルになる。
ビジネスモデルは、意外にシンプルで、こんなに単純でいいのかと思えるくらいだ。
ただし、ビジネスモデルは、どのような環境(条件)のときに有効かの判断を誤ってはならない。
こうした判断は、金融の理解・判断が前提となる。
成功した形の、あくなき繰り返しで、会社の上場は、考えていたよりは容易だと思える。
成功した形が繰り返されることで、ビジネスモデルになる。
ビジネスモデルは、意外にシンプルで、こんなに単純でいいのかと思えるくらいだ。
ただし、ビジネスモデルは、どのような環境(条件)のときに有効かの判断を誤ってはならない。
こうした判断は、金融の理解・判断が前提となる。
近時、共働きの夫婦が多くなり、勤務先に近いところを住まいとする傾向が強い。
これは、利便性を重視する考え方だ。
考え方というよりも、そうするしかないという面が強い。
しかし、共働きでない家庭の場合、考え方はいろいろある。
不動産そのものの価値と、そこに住むことで得られる価値、がある。
静かな住宅街の方が、子どもの教育環境には良いと考える人がいる。
保存のネットワークであって、誰かがネットワークの中で所有しているのだから、どこかにあるのであり、自分が所有しなければ、何ともならないものでもない。
この感覚は、取得を焦ることなく、じっくり検討することにつながる。
そもそもは、無人企業を目指すべき。
発想を得るための協議は必要だが、それは少人数とし、社外の人間と行ってもよい。
与えられる仕事をこなすだけの人は、成長しない。最終的には、お荷物になる。
年功序列・終身雇用の制度をとると、どこかの時点で、その人の成果よりも支払金額が増えてしまう。
自分が事業主であるという意識がないと、ぶら下がる人になる。
雇われた人に、事業主の意識を持ってもらうことは難しい。
しかし、なんとか事業主の意識を持ってもらう必要はあり、数値で成果を見ることは、有効。数値で成果を見せることは、必要。
雇われた人の場合でも、自立の期間を設定することにより、事業主化ができるのではないか。
自らが事業主感覚を持てば、やり方を間違えなければ、その方が成果が出るし、おもしろい。
経営者は、努力して得られた収益を分配するのであれば、気が楽である。
しかし、労働者は、それを簡単に認めない。
給与は、得られた収益よりも支払額の方が多くなることがある。
給与は、上がらないのは当然だと思う。
日本では、給与は、特別の事情がなければ、原則として下げられない。
給与を上げると、社会保険料が大幅に増え、事業主者負担が増える。
給与が上がらない時代は、経営者が、新しい人的組成を目指しているからだと思う。
事業主感覚を持つ人だけが参加する企業にすることを考える。
企業を作ろうとするのであれば、最初から事業主感覚を持つ人だけが参加する形とする。
身の回りのものを、常に見直して、いつでも使えるようにすることは、大事だ。
書籍、資料など紙ベースのものや、道具類も、常に利用の全体像を持つべきだ。
書籍は、読んだというだけではなく、それを生かすことが必要だ。
そのためには、読んだ記録として書棚に並べておくだけではなく、書棚での配置を工夫して、いつでも引き出せることができるようにするべきだ。
柳田国男「先祖の話」によると、先祖という言葉は、2通りの解釈があるとされる。
1 家の最初の人ただ1人が先祖だと思う立場
2 自分たちの家で祀るのでなければ、どこも他では祀る者の無い人の霊、すなわち先祖は必ず各家々に伴うものと思う立場
しかし、この点については、私は、多くの人が具体的に先祖として思い浮かべるのは、2の立場でではないかと思う。
1 実際問題として、自分の家の初代は、探しようがない。
そもそも記録が残されていない。
何代も続く家であっても、家の最初の人ただ1人を特定することはできないだろう。せいぜい何百年だろう。
2 先祖の祭(祀り)は、もとは正統嫡流の人の権利であり、それ以外の人は、たとえ本家の先祖が分かっていたとしても、これを祀らなかったという。
3 資料などで、自分がさかのぼれる先祖までしか、具体的な祀る意識は及ばないであろうと思う。
この結果、「御先祖になる」という言い方が出てくる。
「御先祖様になりなさい。」というのは、新たに初代となるだけの力量を備えているということを受け合った言葉だと言う。
柳田国男は、以前の日本人の先祖に対する考え方は、人は亡くなってある年限を過ぎると、それから後は御先祖さま、またはみたま様という1つの尊い霊体に、融け込んでしまうものとしていたようであるとする。
この結果、家が旧くなり亡者の数が多くなると、短い生涯の主人や、子も無く分家もせぬうちに、世を去った兄弟などは、祀ることもなくなり、大抵はいわゆる無縁様になってしまうが、そのような差別待遇はしなかったことに至る。
柳田国男は、この考え方は、神様にも人格を説こうとする今日の人には解しにくいことだとする。
しかし、私には、以前の日本人の先祖に対する考え方の方が、しっくりくる。
親鸞の考え方に近い気がする。
ものについては、ある程度の蓄積ができると、その位置づけ・価値判断ができる。
また、多くのものに接したとき、判断に時間をかけられないことから、すばやい選択ができる。
流通価格は、人間国宝の作品でない限り、ほとんど捨て値しか付かない。
しかし、職人の技の違いは、価格の差ほどではないだろう。
自分なりに納得して、味わい、使い込んでいけば、そのことに価値があると思う。
マネーという場合、基本的には、債権としての評価だろう。
株式は、所有権の割合的単位であり、物権の変形だと考えているが、細分化している点で特殊だ。
集積されたデータにこそ価値があるという考え方があるが、その活かし方に確立した手法があるならば、それは物権に準ずるものといって良いだろう。
日本の場合、福祉国家を維持するために、多額の国債を発行して、マネーを膨れ上がらせた。
この結果、国債の評価損リスクは、大きくなった。
経営者の報酬が高額化しているが、マネーが膨れ上がっているため、それは当然のことだろう。
美術品に、これまでの感覚では信じがたい値段が付くのも、マネーが膨れ上がっていることの帰結だ。
企業の時価総額を上げることが求められているが、マネーが膨れ上がっている以上、当然の要請だろう。
企業の内部留保が大きくなっていることが問題とされているが、内部留保をどのような形で持つかは、それぞれの会社の判断であり、それは自由だろう。
債権が膨れ上がれば、どこかで物権とバランスをとる必要が出てくるだろう。
このように考えると、物権に投資していくという考え方も出てくるだろう。
経済が長期にわたり停滞している理由について、議論があるようだ。
苦労して稼いでも、税金を通して、稼がない人に渡すだけだと感じている人が、多いのではないかと思う。
苦労しないで稼いだものについては、税金がかかってくることはやむをえないという感覚はある。
ある程度の生活を実現してしまうと、それ以上に稼いでも、さほど豊かさを感じなくなる。
今以上に稼がなくとも、知的側面で満足が得られれば、十分満足できる。
単に物的側面が多少変わっても、それを実現するための苦労に応じた満足は得られない。
お金をかけて派手なことを行う人は、それなりにいるだろうが、人は一般に、苦労して稼いだお金は、派手には使わないものだ。
知的に満足した人が増え、また、お金の分配の効果が感じられなければ、経済は停滞するだろう。