ふすま紙のサンプル集
古い日本家屋をリフォームするにあたって、ふすまの張替えが必要となった。
これまでふすま紙を全体として眺めたことはなかった。
手漉きか機械漉きか
色合い
肌触り
模様
絵
昔からのものと現代的なもの
日本でこれまで積み重ねられてきたものの、大雑把でも、その集大成を見ると、日本を考えることになる。
春日大社で見た本朱塗りなどを思い出す。
古い日本家屋をリフォームするにあたって、ふすまの張替えが必要となった。
これまでふすま紙を全体として眺めたことはなかった。
手漉きか機械漉きか
色合い
肌触り
模様
絵
昔からのものと現代的なもの
日本でこれまで積み重ねられてきたものの、大雑把でも、その集大成を見ると、日本を考えることになる。
春日大社で見た本朱塗りなどを思い出す。
現在の若い女性の意見としては、嫁ぎ先の両親との同居など、とても考えられないという。
嫁ぎ先の両親が、建物を別にしても、隣にいるだけでも嫌だという。
(お嫁さんの実家の隣であれば、問題はないようだ。)
これは、舅・姑の態度が、これまでよほど悪かったのだろう。
これからは、この点を注意していく必要がある。
子ども夫婦のプライバシーを尊重して、普段は離れている必要がある。
同居までいかなくとも、両親が近くにいることは、メリットもある。
若夫婦の子を預かることもできる。
舅・姑としても体が不自由になれば、若夫婦の手伝いはありがたい。
隣に住んでくれるお嫁さんは、よくできたお嫁さんなのだということだ。
近代人の感性 渡邊崋山(登)
1804年、登(12才)にとって生涯忘れることができない1つの事件が起きている。
登は、日本橋付近を通行中、登と同年輩位の若君の大名行列を冒してしまった。このため、衆人環視の中で散々打たれたり蹴られたりの辱しめを受けた。このとき、登は、燃えるような発奮が起きた。(「崋山渡邊登」7頁)
封建時代に対する近代の感性が生じたと考えられる。
辻惟雄は、「戦後日本美術の花形としての前衛美術(現代美術)は、大衆の興味をさほどひきつけていたとは思えない。」(「日本美術の歴史」419頁) とし、
「現代美術が社会との連帯を取り戻すための1つの示唆として、<優れて現代的であると同時に、すぐれて伝統的である>という課題」を提示する(同434頁)。
草間彌生、奈良美智、村上隆、名和晃平などの作品は、かつての前衛美術とは異なると思われる。
表現は、具象を用いたシンプルなものである。
現代の感性は、何か?
群れない。主体性。
おしゃれ
今あるものを使って自由に生きる。
感性の追求をすると、個人差が大きいことに気がつく。
小学生にとって、重い教科書を、これまた重いランドセルで運ばせて、大人は、何を考えているのだろう?
私もランドセルを買ってもらった一人だが、それがかさばり、重いことから、早々に、ビニールのナップサックに切り替えたことを思い出す。
1967年頃、アラン・ケイによって、パーソナルコンピュータが作られたことがある。アラン・ケイは、長年にわたって、ダイナブックの構想を持ち、それを追い続けた。
その後、ダイナブックは、東芝のラップトップの商標になってしまい、その本来の姿が追い求められなくなってしまった。
現在のスマホが、ダイナブックなのかもしれないが、今一度、ダイナブックの精神に基づくマシンが考えられていいと思う。
教科書も一生使えるように収められるマシンがあるといい。
自前のシステムは、利用しやすいと感じる。慣れてくれば、尚更だ。
しかし、時間の経過と共に、そのシステムは基幹ソフトが古くなる。
こうなると皆が利用する場所に置くことに支障が出てくる。たとえば、クラウド化できない。
世の中は、新しいソフトが次々に出てくる。
多くの人が利用するソフトは、安価で利用しやすい。
自前のシステムに慣れが生じると、新しいソフトの存在に気がつかない。
この結果、慣れて気分がいいところがあるものの、古いままということになる。
慣れることは、自前のシステムに対してではなく、皆が使うシステムに対してである必要がある。
食
食べられる量は限度があり、値段の違いほど差はない。
健康
健康は、何か特別なものでしか実現できないものではない。
むしろ、害のあることをやめればよい。
病気になっとき、お金により治療法の選択が広がることはあるだろう。しかし、それは、限定された場合だ。
衣
たくさん買っても、使うのはわずか。
服や靴をたくさん持っていることがテレビなどで話題になるが、どれほどそれを使ったのか定かでなく、逆に、使っていないのに持っていることで愚かさを感じさせてしまう。
動産
装飾品
高価なものは、基本的に華美で過剰だ。
大きな宝石は、逆に、本物には見えない。
時計
時計は、たくさん所有しても、使うのはわずか。
住
大きさはピンキリだが、実際に使っている部分は限定される。
移動
車
こだわりがある人には、大きな違いかもしれないが、現実にはそれほどの大差はない。
旅行
行き出せば、きりがないが、現実には、それほど覚えていない。
教育
塾・学校の費用は、効能をよく考える必要がある。
子どもにとって何が必要かは、時代と共に変わっていき、固定観念にとらわれる必要はない。
娯楽
スポーツ
自分でできることには、限度がある。
知的作業
書籍
理解し使いこなせる量をはるかに超える書籍を、購入することは容易。
美術品
上を見ればきりがないが、自分の余裕の範囲で楽しむことはできる。
人との違い
話題のために何かにお金を使うことはあるが、話題の必要を感じない人も多い。
やってみたいことは、いくらでもあると考える人はいるが、自分の満足のための範囲は限度がある。
美しさ
全ての人は、年齢には勝てない。
年齢に応じた美しさは、健康を考えることで実現できる。
お金
お金は、記録としての意味しかない。
こうして考えてくると、自分は、既に持っているという結論になるのではないだろうか。
何かまだ実現したいものがあるように見えても、ただ、お金を持ったことを、記録したいだけだ。
(もちろん、お金がなくて苦しんでいる人が多くいることは分かるので、ここでの記載を誰にも当てはまると考えているものではない。)
自分は何をするか?ということに尽きる。
自分の行動を少し広げてみることは、いいのではないか。
子どもが巣立ったら、自宅を処分して、コンパクトで便利な場所に住む。
書棚の本を、いろいろな基準で並べ替えてみる。
塩野七生「ローマ人の物語」から、自分に似た皇帝を探してみる。
旅先で見つけた気に入ったもの(落ち葉など)を集めて、箱の中に構成してみる。
おもしろいと感じたペーパーを集めてファイルして、絵本にしてみる。
東京などで売り出されている不動産を検索して、現地に行ってみる。
梅棹忠夫の「文明の生態史観」を、自分なりに膨らませてみる。修正してみる。
自分のすべての経済活動をエクセル表に落とし込み、キャッシュフロー一覧表にまとめてみる。
そのエクセル表を加工して、自分の未来の姿を表わしてみる。
これまで本などを読んで大事だと感じた個所を、年表に落とし込んでみる。
時間軸に落とし込みにくい個所もあるかもしれないが、それを落とし込める物事の見方を考えてみる。
こうしてできた年表は、これまでの歴史年表とは全く違った流れになり、歴史のとらえ方を考え直してみる。
昔、持っていたもの・気になっていたものなどをネットで検索して、入手してみる。
明かりをつけないで(電気をつけないで)お風呂に入る。
焼物の産地ごとにコーヒーカップを集めて、比べてみて、それを使ってコーヒーを飲んでみる。
旅行、食事、時計、美術品など、高額な値段を見ることが多くなった。
高額でも買う人がいるということだ。
そのものの価値と値段は、あまり関係なく、「価値があるから値段が高くなる」のか「値段が高いから価値がある」のか不明だ。
この現象は、人は価値だけでは、それが見極められず、満足して生活できないということを示していると思う。
世の中、マネーがあふれているので、金額だけ見れば、それが積み上がっているという面もある。
しかし、このような時代だからこそ、価値を見極める生活をしたら、コストを過大にかけないで満足できると思う。
価値の見極めでは、その道の達人とか専門家があふれているが、自分の感覚で生きていけばいいだけだと思う。
文章は、概念を組み立てたもの。
読むのに時間がかかる。
絵画・写真は、統合された知恵。
一瞬で全体を見ることができるが、意味の理解ができているかどうかは、別問題として残る。
西洋と日本の違いに似たところがある。
文章は、絵画・写真を見るように、一瞬で全体を見るようにとらえるべきだろう。
絵画・写真は、文章を読むように、概念で組み立ててみてもとらえるべきだろう。
収入の範囲で生活をしなさいと言われることが多いだろう。
給与生活者で、給与の高望みをしないで生活することに満足している人も多いだろう。
しかし、中小事業者の場合、収入が安定せず、そもそも給与生活者の感ずる安定など、はるか先のことだと感じている人も多いだろう。
こうした中小事業者にとって、収入が支出を上回ることだけが、望みとなってしまうこともある。
こうした望みを感ずるとき、中小事業者であるならば、その望みを振り払い、チャレンジャーでありたいとも思う。
こうした気持ちの揺れは、いつも感じているものだろう。
中小事業者は、こうした気持ちの揺れに耐えながら(できれば楽しみながら)、したたかでいたいと思う。