新聞に「国は放置した」という見出しを見ることがあるが、それはどのような意味か?
法令で決められていることを、国が行わなかったのであれば、法令違反だ。
しかし、まだ何も決められていない事柄について、国が行うべきだとの観点から、「国は放置した」というのは、国民が放置したということだ。
何でもかでも国に求める言い方は、発言することは自由だが、それだけでは実現しない。
法令で決められていることを、国が行わなかったのであれば、法令違反だ。
しかし、まだ何も決められていない事柄について、国が行うべきだとの観点から、「国は放置した」というのは、国民が放置したということだ。
何でもかでも国に求める言い方は、発言することは自由だが、それだけでは実現しない。
民間人の月旅行が話題になっている。
費用は明確にされていないが、月旅行の宇宙船の全席を押さえたのは、話題の人だ。
現実の体験は、イマジネーションでの体験を超えるものがあるので、月旅行は、わくわくする体験だろうと思う。
しかし、どれだけお金があっても、ものを買ったり、体験するだけであれば、それほど大きな満足の違いがあるものでもないと思う。
せいぜい目立つことの違いくらいだ。
こうなると、イマジネーションでの体験を、さらに突き進めるしかないのではないかと思う。
それは、内面的なもので、知的であったり、感覚的なものであったりする。
そのためには、何らかの方法で知覚する必要があるだろう。
本を読んだり、音楽を聴いたり、映画を見たりすることになる。
また、作品を見たり・作ったりすることになる。
さらに、実験したりして、新しい世界を切り開いていくことになる。
これは、実は、誰でも日常的に行なっていることだ。
受け身ではなく、自分としての追求だ。
自分の欲望を、さらに突き進めるということは、結局、こうしたことだ。
個人事業主が人を雇っている場合、自分の仕事を進めるために、その人を役立てようと考える人が多いだろう。
自分が中心となって人を引っ張るという感覚。
しかし、その場合、不満が多いのではないかと思う。
そこで、雇っている人が力をつけてくれることに尽力し、自分に配当するという形にならないかと考えてみる。
これは、組織のあり方、仕事のとらえ方を切り替えることになる。
雇われている人は、多くは指示待ち族で、個人事業主が、引っ張っていかないとだめだと感じる人が多いかもしれないが、急がば回れという面もあるように思う。
自分の仕事については、人を引っ張るということではなく、人が力をつけるためにどうしたらよいかを考えることになる。
「配当するという形」というのも、それぞれの仕事で違ってくるため、一律には言えないが、自分の仕事では、どういうことかを考えてみるべきだろう。
たとえば、親が子に仕事を継いでもらうことを考えるように、親族関係のない人でも、どのようにしたら「継いだ」といえるのかを考えてみるべきだ。
ただし、世の中の多くの人は指示待ち族だとは思うので、人の採用について、時間をかけて修正していくことになるだろう。
東京駅近くの KITTE 丸の内店に入ってみた。
パナマ・ゲイシャという銘柄のコーヒーが一杯、3,000円、2,000円、1,800円でメニューに出ていた。
他の銘柄は、もっと安いものが多くあったが、これだけ突出していた。
3,000円、2,000円、1,800円という値段設定が、興味深く、その理由を尋ねてみた。
同じような環境の豆でも、評価された豆は高く、そうでないと安いということだった。
評価されたかどうかの違いが大きいということだ。
評価(お墨付き)があるかどうかの違いを、お店側とお客側とで、それぞれどのように取り扱うかが問題となる。
お店側としては、評価(お墨付き)があることを、安売りの価格競争に巻き込まれないために使うことはあるだろう。
しかし、評価(お墨付き)があることの違いを、どのように説明するか、実際にお客側に分かってもらうか、が大事になるだろう。
お客側の私としては、評価された豆とそうでない豆の違いを追及し、その違いを味わう道を進むのか、ほぼ同じグループのものとして、違いを気にしないでそのグループを味わう道を進むのか、分岐点に立たされた。
私は、評価された豆とそうでない豆の違いが分かるほどの感覚はないと思う。
話の種になるとは考えたが、それだけに終わらせるのも寂しい気がする。
まあ、いろいろ考えたので楽しめたかもしれない。
幸せという観点から作品を見ていくのは、普段そうしていなかったので、新鮮であった。
普段は、作者の意図とか格闘の姿を探していたように思う。
江戸四季風俗図巻(無款 菱川派)は、四季折々の人々の姿が、誇張することなく書かれているだけだが、その姿を見ると自分と近いものを感じ、幸せというものを改めて考えることになった。
琴棋書画図(曾我蕭白)は、俗塵を離れた自然に遊び、4つの風流事を嗜む理想の高士像を描いたものということだが、これも、何か特別なことをしなければ、そこに行き着けないというものではないことを示していると思う。
幸せに安住することを良しとは思わないが、普通の姿でも良いとすることは、よく考えてみるべきだと思う。
安室奈美恵の引退について、多くの記事が出ている。
その多くは、引退を惜しむものであるが、反対の意見も当然あるだろう。
しかし、その取り上げ方は、私には、踏み込みが足りないように感じてしまう。
「ミュージックステーション ウルトラFES2018」で、安室奈美恵の初出演からの全出演を短時間にまとめていた。
全体をコンパクトにまとめることで、振り返りがしやすくなる。
小室哲也のグループから離れた(?)ことで、CD売上枚数が減ったことがはっきりしている。
CDの時代が変化していったという面もある。
安室奈美恵は、若い頃の大成功を足場に、努力を続けた人であることがわかる。引退という判断も、その努力がいつまで続けられるかという判断によることが伺える。
マスメディアは、どうしても感傷的な取り扱いになってしまうが、それとは別に、自分自身で、安室奈美恵の歴史を数字でとらえると、違った見方ができるだろう。
日本人と似ている外国人も多いだろうから、外国人の数は、見た目よりも多いだろう。
外国人だからというだけで何かを決められるものではない。
日本人も、いろいろな人が増えてきたと感ずる。
こうした状況では、人を見る目が大事になってくるだろう。
価値観のばらつきが大きくなると、その見極めが不可欠だ。
例えば、結婚に関しては、昔は結婚相手を親が決めていた時代もあった。
しかし、それができたのは、価値観のばらつきが少なく、実際の姿もばらつきが少なかったからだと思う。
人を見る目が大事だとなると、ある程度の期間、多くの人を見る必要があるだろう。
一人の人を判断する場合でも、価値観のばらつきが大きく、いろいろな人が増えてきた状況では、ある程度の期間が必要だろう。
今の時代は、人を見る見習い期間が、だらだらと続く時代だ。
貯金額で表わすことは、多くの人にわかりやすいので、そうするのだろうが、貯金を崩して生活していくことを考えているのだろうか?
人生100年時代と考えるのであれば、いつ寿命がくるかわからないので、貯金を崩して生活することは、大いに不安だと思う。
貯金額を基準にするのであれば、貯金から得られる利子で生活することを前提とするべきだ。
あくまでも収益性で判断するのが正しいと思う。
株式であれば配当。
不動産であれば賃料収入。
自分が何らかを実行するために、本を読むことが大前提。
時間つぶしなど、消費のために本を読むことを避ける。
研究のためだけに本を読むことを避ける。
そのためには、実行することを探さなければならない。
先ず自ら問い・疑問を持つことがいいのではないかと思う。
その問い・疑問を、持っている本にぶつけてみる。
本を持つ範囲は、各人の境遇により様々だが、自ずから限度があると思う。
多くの本を持つ人がいるが、使えない本を持っていても仕方がない。
本は、最初から読むのではなく、全体の構成を知り、必要なところを探すことができるようになれば、それでばよい考える。
エミール・ビュールレ(1890-1956)が取得した作品の4分の3は、晩年の6年間(1951-1956)にコレクションに加わったものである(至上の印象派展2018の図録20-21頁)。
この時期のビュールレのコレクション対象は、既にある程度の評価を得ていた作品である。
作品選択が保守的とされている(図録24-25)。
ビュールレが、20世紀初頭の美術に手を広げたときも、パリで創造された芸術に限定している(図録26-27)。
また、第2次世界大戦後、急速に拡大していった抽象絵画に対しては、距離を置いていた(図録28-29)。
コレクションのあり方として参考になる。