ルールの枠組みを明確にすることは、参加者のやる気を高める。

ルールの枠組みとしては、いろいろなところで考えられる。
 収入分配、経費分担、依頼事項の示し方、

ルールの枠組み作りは、大きな組織であれば、必然的にできてくるものだろうが、小さな組織では、その必要性があまり認識されていないように思われる。

また、ルールの枠組み作りは、作った人が、それを開示すると、自分自身も縛られる。
 このことを嫌う個人事業者・経営者も多いだろう。

しかし、収入分配などで、すぐ分かることだろうが、ルールの枠組みが明確でないと、そもそも参加者は努力しないだろう。そのデメリットは大きいと思う。

自分自身が縛られることを恐れて、ルールの枠組みを開示しないよりも、参加者のやる気を考えるべきだろう。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年09月07日 | Permalink

個人事業主の姿は、歴史上、いろいろな形で見ることができる。

いつの時代も、権力者側は個々人を統制しようとするが、見逃された自由はある。
 すべての人を四六時中統制することはできないだろう。
その自由の中で、人は生きてきたと考えている。

古代豪族
8世紀後半から、富豪は歴史の表面に姿を見せ始める(日本の歴史「古代豪族」290頁)。
富豪は、買い集めた田地を、元の持ち主にそのまま耕させて小作料を取り立てる(間接経営)のではなく、自らが隷属農民を駆使した(直接経営)。

中世武士団のイエの独立性
鎌倉時代の不動産訴訟では、当事者同士の示談による和解(和与)が奨励されていた。
その基礎に横たわっているのは、当事者たちそれぞれが、1個のイエの支配者であり、小なりとはいえ1つの小宇宙・小国家の君主でもあったという中世社会の特質である。
鎌倉幕府では原則として主人と従者との対立する相論は受け付けない、という基本態度を守っていた。(「主従対論」は幕府の裁判所ではとりあげない)これは、幕府と御家人との関係で御家人側の自主性を認め、主人である度家人の従者にたいするイエ支配権を承認したものと見るのが正確。

近世町人
水田に稲を作る者の上に権力が築かれた歴史の中で、非農業者の歴史は、語られなかった。
士農工商は、もともと中国古代の身分秩序で、工商は、士農と区別された卑賤身分であった。しかし、科挙の受験資格について見ると、中世には、工商は、科挙の門が開かれており、士農工商の区分は早くから崩れていった。
日本でも、町人は、士農の下位に位置づけられた身分称呼であったが、近世に固められた身分秩序だった。
中世末に、都市の自由を作り出し、闊達な文化を築き上げた町衆があった(日本の歴史「町人」16頁)。

経営型農民(山本七平「渋沢栄一 近代の創造」37頁)
渋沢栄一(1840年生)は、農耕・養蚕のほか、藍玉の製造・販売を営む豪農の家に生れた。代官から御用金の申し付けを受けた際の侮辱・嘲笑に憤慨した話(17歳のとき)(青淵百話)が残されているが、封建制・身分制を笠に着て、経済力・能力に秀でたものに対して理不尽な行為をすることを、心から軽蔑した。
能力的に、武士階級に勝る力をつけた農民が出てきている。職業選択の自由がないものの、工業・商業の分野で工夫することができた。
封建制・身分制の中で、血縁により有利な立場に生れた者の中には、相手を侮辱・嘲笑する者もいる。しかし、血縁により有利な立場に生れたというだけで、その者が自分の力で獲得したものではないものを振り回しているだけで、優れた者とは言えない。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年09月03日 | Permalink

ドラマで流れる交渉シーンは、あまりにも情緒的で、現実離れしている。

NHKの「西郷どん!」で流れていた薩長同盟締結の場面は、ドラマだと言われればそのとおりだが、交渉のあり方について誤解を与えるのではないかと危惧する。
 あまりにも情緒的で、現実離れしている。

 日本人が、交渉事を誤解する原因が、ドラマにあると思う。

 頭を下げることが交渉だと勘違いしないか心配になる。
 逆に、頭を下げれば、交渉はまとまるもので、こちらが頭を下げているのに、まとめようとしないのは、相手方がおかしいと考えないかと心配になる。

現実の交渉は、いろいろな条件を調整する作業で、多くの事実と見通しの積み上げ作業だ。
 どちらが先に頭を下げるかという単純なものではない。
 感情を抑えて、先に頭を下げることが、感情問題を乗り越えて解決するために、大人の態度といえるものでもない。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年08月31日 | Permalink

あまりにも自分の感覚と異なることが起きる。どうすればいいのだろうか?

(ここでは、具体的に何が自分の感覚と異なるかは、述べない。)

起きたことに対応していくだけだ。
 自分にあまり関係がないことに、こだわる必要はない。

社会がどうあるべきかを考える人もいるだろうが、私は、自分との関係をよく考えることが大事だと考えている。

社会だけを取り上げて議論したり、考えてみても、それは甘い議論・検討にしかならない。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年08月30日 | Permalink

いつまで集合住宅を作り続けるのか?

集合住宅には、区分所有、賃貸を含めて考える。

収益性を考えれば、集合住宅となる。
 収益率を計算すれば、集合住宅が合理的となってしまう。

しかし、収益率は現在のものだ。別の観点を入れると結論は、異なってくるのではないか?
 管理の自由さ
 快適な環境
  停電時の階段上り下り

投資家として考えるとき、すでに持っている人は、現在の収益率ではなく、将来の姿を考えて、収益性を少し落としてでも、管理に無理がない形を考えるべき時期に来ていると思う。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年08月27日 | Permalink

バランスは、どこから来るか?

河合隼雄さんが指摘した「中空構造」は、おもしろい仮説だと思う。
 古事記では、3組の3神が登場するが、それぞれの組に、登場はするものの、何らはたらきをしない神(無為の神)が置かれている。無為の神は、他の相対立する2神の力を適当に均衡せしめるモデルだとする。

ドラッカーは、「日本美術の特色は、概念ではなく知覚、写実ではなくデザイン、幾何ではなくトポロジー、分析ではなく統合である」とする(「日本画の中の日本人」35頁)。
対置される西欧が、物事を分解し、詳細な説明を付け加えていくスタイルであるのに対して、日本は、存在するある事柄を、それ自体として把握するスタイルであるという意味であると思う。
この分析は、バランスをもたらす根元であると感ずる。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年08月06日 | Permalink

人生のラップタイムは、常に意識すること。

物事には、時期がある。
 学校で学ぶ時期
 仕事を始める時期
 家庭を持つ時期
 子どもを育てる時期

こうした時期をあいまいにして、自由に過ごすことは、楽しいこともあるだろう。
しかし、そのしっぺ返しは、必ずどこかで来る。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年08月03日 | Permalink

個人事業主の強みは、自分の才覚で業績を伸ばせるところだ。

大きな組織であれば、多くの人に、業績向上に結びつく「何らかのもの」を伝達することが必要だ。

しかし、個人事業主であれば、自分の考え方を変え、実行するだけだ。
 個人事業主は、他人にぶら下がることができないが、他人にぶら下がられることも避けられる。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年07月31日 | Permalink

何を見て考えるか?

考えるときに、何かを見ているものではないという人もいるだろう。
しかし、多くの場合、何かを見て考え始め、そこから目を離しても考え続けるというものだろう。

数字でとらえることは大事であり、それを表やグラフにして、それを見て考えることは多いだろう。

しかし、これ以外にも定点観測するものはあるだろう。それを見つけることは重要だと思う。

見るものは、経済的な事柄だけでなく、それをもっと広げたい。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年07月26日 | Permalink

人を雇わない経営

すべての人が事業者の感覚を持つことは、難しいだろう。
 雇われて給与の支給を受けなければ生活できない人は多い。

しかし、事業者としての自覚を持って生きている人も多い。このような人は、これからの時代をどのように生きていくべきだろうか?

個人事業主の生き方は、シンプルだと思う。
委託先、外注先は、持つ。しかし、人は雇わない。

日本の労働法制は、労働者保護が強く、事業者(経営者)にとっては負担だと思う。
人を雇う場合の、社会保険料負担も過大になっている。

個人事業主は、基本的に、「自分でできることは自分で行なう」と考えていると思う。
また、自分で行うには不得手なことがある場合、それをサポートしてくれる外注先は、いろいろある。

多くの人を雇って、大規模に事業展開するのは、恐竜のような生き方だ。気候変動(時代の変化)で絶滅する可能性が高い。
哺乳類のように、体は小さくとも、自分で変化に対応できる生き方をするべきだ。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2018年07月20日 | Permalink