メガリージョン、スーパーメガリージョン
このキーワードで検索すると、いろいろな論文を読むことができる。
しかし、どれも分量が多く、難しい表現で、ポイントをつかみにくい。
社会を前面に出して考えすぎている。
シンプルに考えれば、リニアで、スーパーメガリージョンが実現する見通しであるときに、自分は何を入手して生活を楽しむかという点に尽きる。
不動産に限定すれば、どこの不動産を入手して生活を楽しむかということだ。
このキーワードで検索すると、いろいろな論文を読むことができる。
しかし、どれも分量が多く、難しい表現で、ポイントをつかみにくい。
社会を前面に出して考えすぎている。
シンプルに考えれば、リニアで、スーパーメガリージョンが実現する見通しであるときに、自分は何を入手して生活を楽しむかという点に尽きる。
不動産に限定すれば、どこの不動産を入手して生活を楽しむかということだ。
自分にとって価値があるものを求めていく生活をするべきだ。
貨幣よりも評価を重視することを述べる本がある。
貨幣経済社会から評価経済社会へ(お金の時代から評価の時代へ)岡田斗司夫「評価経済社会」
資本主義から「価値主義」へ 佐藤航陽「お金2.0」
しかし、「評価」は、簡単ではないところがあると思う。
SNSで出てくる「いいね!」の数、友達数、フォロワー数、アクセス数などは、客観的といえばそうだが、注目や人気であり、自分の求める評価とは一致しないだろう。
貨幣経済社会の限界は、あまりにマネーが膨張しすぎて、その価値がバブルとなっているからだと考えている。
自分が良いと感ずるものを選んで生きていけば、十分楽しめる。
美術品の価格高騰は、投資家の目線では、考える必要があるかもしれないが、自分が好きなものを選ぶときは、あまり関係ないだろう。
お金は、自分が良いと感ずるものを買うことができる程度は必要だが、それを超えては、あまり必要がないだろう。
「狭い日本、そんなに急いで どこへ行く」という標語があったが、日本は、陸地だけに限定しても、狭いものではない。自分が行ったことがない所は、いくらでもある。
まして、深く理解したかといえば、とてもそうとは言えない。
自分の関心を振り返ってみると、温泉、巡礼、美術、陶磁器だ。
これを立体的に組み上げていくと、自分なりの日本の理解が深まると思う。
関心が広がるに連れて、立体化する。
巡礼は、信仰の対象であるが、同時に、その時代の文化・技術の中心であったと思う。
しかし、現在の寺は、ご利益(ごりやく)という曖昧な目的は残されているが、時代の文化・技術の中心ではない。
この点で、巡礼の意味を明確にとらえることは難しくなっている。歴史の視点で見るということだろうか。
世の中の多くの人は、真面目である。
しかし、真面目なのは、今やっている仕事に対してだ。その人がしなければいけない仕事、特に今は仕事になっていないものに対しては、不十分だ(その点では、真面目とは言えない)。
真面目だから、今やっている仕事だけに手一杯になってしまうのか、その点は、不思議だ。
一見して真面目ではない印象があり、しかし、何か新しいことに気がつき、何かやってくる人は、その世界の盟主にとっては、脅威だろう。
以前、「コンピュータの時代は、体系の中で探すのではなく、キーワード検索などで目的物は探せるので順不同でもよく、体系は不要だと考える人もいるかもしれない。しかし、体系は、何かを探すためだけでなく、そのもののとらえ方を考えることに意味がある。」と書いた。
このときは、文書を中心とした体系化を考えていた。
しかし、文書だけでなく、物(アイテム)も含めて体系化する必要があると考えている。
このとき、どのような種類のものがあるかは、文字で表し、容易にその体系化ができる。
これに対して、自分が関心を持って集めた物(アイテム)は、集めてみると気がつくことがある。
文字にならない体系もあると思う。
文字で表せるものだけでなく、物(アイテム)そのものが持つ個性も、集めてみると気がつくだろう。
こうしたとき、物(アイテム)を集める箱は便利だ。
物(アイテム)は、かさばるし、壊れやすいため、保管方法はよく考える必要がある。
体系化するのは、目的でなく、手段とするため。
書籍、資料、アイテム、その他所有するもの全てが、体系化できたならば、いつでも取り出して使えるようになる。
体系化を考える段階で、自分が所有するものを改めて把握し、そこから何が出てくるか考えることになる。
日常生活の中で、ちょっと気がついたとき、それを自分の体系の中のものと比べることにより、進展が起こる。
複数車線を、多くの車が走るとき、次のような車が出てくる。
前の車との車間距離を不相応に広くあける車
車線を無理に変更して、事故を起こしたり、起こしそうになったりする車
前の車との車間距離を不相応に広くあける車は、ゆっくり自分のペースで走りたいのだろう。「狭い日本 そんなに急いで どこへ行く」という標語が採用されるくらいに、日本は、スピード制限には前のめりだが、効率には無頓着な社会だと思う。
しかし、すべての車が車間距離を1キロメートルあけたとしたら、どうなるかを考えてみれば、明らかだ。後ほど渋滞する。恐ろしく非効率な、道路を浪費する社会となるだろう。
社会福祉でも、同じように実感することができる。社会福祉の必要性は認めるが、効率的な運用をしなければ、財政は破綻することは明らかだ。年配者だけが、自由気ままな福祉を享受すれば、若輩者は、支えきれないだろう。
したがって、社会は、効率のために、一丸となって進む必要がある。道路に例えれば、車間距離は、事故防止のために必要な距離をあけるものの、それ以上あけてはならず、アリの隊列のように進む必要がる。
車線を無理に変更して、事故を起こしたり、起こしそうになったりする車は、非効率を何とかしたいと考えるから出てくる。隊列のように進むならば、車線を変更する必要性は、出入り口近辺くらいしかなく、それ以外は、禁止してもいいくらいだろう。事故も減るだろう。
1Kだけの部屋のアパートを作ったりするのは、投資効率を高めるためだという。
しかし、未来の人たちが、それを好むかは別問題としてある。
東証REIT指数は、土地価格が上がりすぎると、逆に下がると聞く。
土地取得の困難さが増し、運用利益が減るためと聞く。
しかし、土地価格が上がることは、不動産経済にとっては、悪くないことだと考える。
これまでスペースがあったことにより、多くの資料・物品を保管できた。
もちろん、保管する価値があるかどうか決められるまで、当面保管するという選択肢もある。
一族にとって、過去の資料があるかどうかが、決定的な差となると考えている。
一族の未来を考えれば、必要な資料・物品を保管することを心掛けるべきだ。
自分が関与していない記録・資料は、容易に捨てられる。
自分に影響した部分のみ残せばよい。
父母が集めた絵葉書は、難しい。
父母が眺めた時代の景色が残されていると感じるし、集め、残した理由も考えてしまうからだ。
何か影響することがあるかもしれないと考えて残すことは、いいと思う。
しかし、後になって、なぜこれを残したのだろうと疑問に思うことも多い。
定期的に配られるものは、残す方向で考えてしまう。
将来に広がりを感じてしまうからだ。
しかし、多くなりすぎないうちに、残すか捨てるか考えるべきだ。