自分のビジネスの新しい場所・形

自分のビジネスについては、皆、いろいろと努力しているところであるが、同時に、どこで行なうかも考える必要があり、また、その形をどうするかも考える必要がある。

これまで展開してきた場所だけでなく、もっと顧客が集まる場所で展開しようと考えることはよくあることだろう。
たとえば、東京に出店することなど。

東京に出店すると、顧客が多くなるだろうと期待するだろうが、競争者も多いことにすぐ気がつく。

しかし、見ていて感ずるのは、違う地域に出たとき、顧客の数の問題よりも、顧客の性格をどのようにとらえて対応するかだと思う。

物販でもサービス業でも、顧客の性格の違いに驚くことがある。自分にあった顧客を見つけようと、もっと努力しても良いと思う。仕事のやり易さは、いろいろだ。
自分がよく知った地域の顧客のことを考えていれば良いという意見も聞くが、自分のビジネスの展開は、もう少し広く考えてよいと思う。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2017年04月18日 | Permalink

人生には、いろいろな隙間がある。

仕事でも遊びでも家庭でも、活発に動いていると、いろいろな場面に出くわし、驚いたり、賞賛したり、嘆いたりする。これは、自分とは違った面(世界)に出会ったからだ。自分とは違った面(世界)が、自分の外にあると感じるときもあるだろうが、それが自分の中にあると感じるときも多い。
こうした経験を重ねると、自分の人生を完璧に理解していたつもりでも、実は分からない部分・知らない部分があることに気づく。

自分が理解しているポイントを集め、それで組み立てただけでは、実際の人生にはならない。人生は、そのようなスカスカしたものではない。表現の仕方が良いか分からないが、人生は、もっと詰まっている。重さがある。密度がある。

人生の分からない部分・知らない部分は、隙間のようにある。何もない隙間ではなく、何かある隙間。

こうした隙間を見つけることは楽しいことだ。それは、自分しか見つけられない。隙間に入ってみると、自分が小さくなって、隙間が巨大な空間になったりする。

こうした体験を具体的に語るのは、プライベート過ぎて、はばかられるが、例えば次のとおり。

信楽焼を見に行ったところ、「やきもの たぬきのルーツ図録」が300円で売られていた。信楽焼のいろいろなたぬきを見て回り、家に帰ってから、これを読んだ。

茶道の世界で、「掛け軸に描かれたタヌキの絵を見て談笑したり、或いはたぬきのやきものを茶道具の一つに取り入れていったように考えられる。」とあった。そして、その後、やきものとして展開されていく。

やきものとしてのたぬきについては、これまであまり意識して見てこなかったが、ぶたの置物を集めている自分の体験と合わせると、たぬきとぶたの違いから来る差異もあるが、しかし、根本で同じところを感じる。

ぶたの置物を通じて、何となく感じていたそれを作った人の気持ちと響きあう。たぬきとぶたが響きあうだけでなく、それぞれを作った多くの人同士も、また、自分とも響きあう。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2017年04月18日 | Permalink

その日暮らし

ビジネスを、その日の自分が暮らせればよいと考えて進める人が多いと思う。生業(なりわい)なので、それでも良いという考え方もあるとは思う。人口減少の社会では、ビジネスは、そもそも誰がやっても難しい面があるのは確かだ。
 しかし、「生活ができていれば良い。」で終わらせないことを、やはり考えるべきだと思う。そうしないと、必死さに結びつかないだろう。必死さがないと、じり貧になる。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2017年04月17日 | Permalink

評判は、どこまでのものか?

「そんなことをすると、評判を落としてしまうぞ。」というアドバイスは、よく聞く。
特に、年配者から聞かされる。

私は、評判は大事だと考えているので、そのように生きてきた。
しかし、還暦を迎えてみると、評判の限界も感ずる。

良い(悪い)から評判になるのか、広告でも何でも、単によく聞くから評判になるのか、その区別はあいまいだ。
また、年齢とともに忘却も甚だしくなる。

評判を大事にしているというメッセージは重要だが、それだけでなく、強いアピールが必要だ。

中小事業者の中には、どこまでも「良さ」にこだわりを持つ人たちがいる。それは大事だと思う。
しかし、方法は考える必要があるが、強いアピールを意識するべきだ。

商品・サービスは、それほどでもないのに、拡大・成長しているところがあるのは、事実だ。
プロから見れば、それほどでもない商品・サービスは、分かるであろう。しかし、「それほどでもない商品・サービス」だと言ってみたところで、影響はほとんどないことが多い。

強いアピールが先で、良さは後から付いて来ていることもある。

このような社会であることが、良いか悪いかについては、言いたいことがある人は多いだろうが、そのような社会を前提にするしかないだろう。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2017年04月14日 | Permalink

チャレンジャーの気持ち

私は、いつも自分の力で築き上げることを考えてきた。したがって、いつもチャレンジャーの気持ちでいる。
世の中には、生まれたときから豊かであり、守るべきものを持つ人たちも多い。こうした人たちの気持ちは、チャレンジャーとは別のものであることも多い。

この両者については、どちらも、それぞれにあるのであり、優劣を付ける問題ではない。

世の中では、親がチャレンジャーであるのに、子や孫は全く別ということは、よくあることであり、そこからいろいろな軋轢が生じてくることを見てきた。
親は、どうしても自分の感覚でものを言う。チャレンジャーとして成功した親ほど、こうした傾向がある。

しかし、豊かになったのであれば、どのように豊かに暮らすかを考えなければいけないと思う。親が、子や孫に対して、自分と同じように苦労してみろと言ってはいけないと思う。

もちろん、親は、子や孫が没落してほしくないから、いろいろ言いたくなるのだが、時代の変化は無視できないものだ。

自分がチャレンジャーだと考えている人は、自分の境遇の変化に応じて、考え方・行動を変えていかなければならない。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2017年04月13日 | Permalink

お金の管理

いくつかの会社を持っていたり、いくつかの部門で働いていると、お金の動きは、多数になってくる。
人件費は、定期的に払わなければならないが、税金は、形を変え、支払時期も分散し、支払も、銀行口座引落しだけでなく、納付書によることも多い。水道光熱費も、活動の場所が複数になれば、どこの支払か混乱するだろう。

このような中で、家計簿のようなスタイルでは、管理は大変ではないかと思われる。手書きだと尚更だろう。
しかし、世の中で、多く紹介されているのは、家計簿のような帳面スタイルだろう。いろいろなアプリもあるだろう思うが、お金の動きが拡張していくと、使い勝手は悪いのではないかと思う。

表計算ソフトは、多くの人が使っていると思われるので、どこかでこれを利用することになるだろう。
毎年、昨年の実績表に、今年の数値を入れていくと、昨年との対比ができて、異常な数値かどうかも確認できる。

単純に、自分で表計算ソフトに記入していくと、お金の動きが拡張しても、表が大きくなるだけのことだ。
この方法の場合、お金の動きが拡張したとき、これまでの表計算ソフト上の記入の、どの部分を拡張するかを考えることになり、自分の体系を理解することにも通じる。

ただ、自分のこの単純な方法は、他の人と話していると、あまり採用されていない。このことは、私にとっては、驚きなのだ。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2017年04月12日 | Permalink

自分にとっての意味を、どのように認識するか?

商品にとっては、「物語」が必要という指摘がある。
 「物語」が分かれば、各自が、自分にとっての意味をとらえられるからだと思う。
 ものだけでは、かなり抽象的・寡黙で、自分にとっての意味をとらえにくい。

自分にとっての意味から、どのようなもの・ことが必要かを考えることはできる。

この考え方をすると、必要なもの・ことは、あまり世間にはないということが起きるだろう。
 欲しいものは一杯あり、必要なものはいくらでも思い浮かぶという人もいるかもしれないが、おそらく自分をとらえきれていないだけではないかと思う。

自分にとっての意味をとらえるとき、頑なに考えてしまうことが多いものだ。
 自分にとっての意味を、柔軟に認識することは難しい。
 自分と異なった人の意見を聞くことも必要だろう。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2017年04月11日 | Permalink

自分が、自分の店の顧客となってみると、いろいろと気がつくことが多い。

これは、簡単に予想できることであるが、しかし、実際に経験してみると、予想以上に気がつくことが多いと分かる。

気がつくというのは、骨格のような基本的な点だけでなく、これまであまり気にしてこなかった、細かな点で気がつくのだ。
「細かな点は、それほど大事ではない。基本的な点こそ、大事だ。」とお考えになられるかもしれないが、実際に気がついてみると、細かな点でも、それを直すことによる効果が意外に大きいと分かる。

頭だけで考えるのではなく、目や耳や手で考えることは、大事だ。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2017年04月10日 | Permalink

「ぐだぐだ」の時代

「応仁の乱」の著者、呉座勇一氏は、「不透明感が強くなった現代の雰囲気に、英雄のいない、「ぐだぐだ」の応仁の乱がマッチしたのではないかと。」とコメントしている(中央公論2017/4)。

多くの時期は、「ぐだぐだ」とも言われている。

自分の現実を考えてみても、努力しなければいけないポイントは、いくつも重なってあり、しかも、どれも明確に白黒がつけられるものでもない。与えられた時間の中で、できるところまで進めているだけで、決着がついているものでもない。

こうした状態が普通だとすると、私たちは、どうしたらいいのだろうか?
壊滅的な状態も、いつかは訪れることもあるが、いつとも想定できない。このようなとき、明日起こる確率が明確でない(経験的には低い)にもかかわらず、それが起こることを前提として、明日を生きることはできないだろう。
しかし、明日起こる確率が明確でないからといって、それを全く無視することはできない。

正解は曖昧としていて、誰もそれが分からない中で、多くのポイントについて、時間の経過の内に、自分なりの査定をして、全体の折り合いを付けるということだろう。こうとしか言いようがない。

これは、現在の自分の立場に立って、そこから考えて、実行していくということで、現実主義と言っても良い。ころころ変わって節操がないように見えるが、大きく間違えない道だと思う。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2017年04月07日 | Permalink

金持ち喧嘩せず。

これは、自分に向けて言う言葉だ。
 自分は喧嘩しないことを伝えるために、これを言っては、高慢と受け止められる。
 相手に対して、喧嘩しないようにと言うために、これを言えば、効果があるかもしれないが、自分よりも金持ちに言う場合だろう。しかし、金持ちには、その人なりの判断があるので、余計なお世話にもなりかねない。

結局、自分の現在の立場をよく考えて、対処しようということだ。

この言葉の意味は、文字通りだと思うが、なぜこう言うのかは、いろいろな理由があると考えられ、この言葉の使い方は、幅が広い。
自分の決断を促す言葉だ。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2017年04月05日 | Permalink