各部局が、文書作成・行動をなす場合でも、会社全体の状況をつかんで、行う必要がある。

各部局が、自分の部局だけの感覚で文書作成などを行なうと、それを全体会議などに出した場合、問題を生ずることが多い。
全体会議は、その調整のために行なわれるからといって、各部局が、自分の部局だけの感覚で文書作成などを行なうことは、賢明とはいえない。

他の部局の立場で、自分の部局の文書などを見てみることは、必要だろう。

他の部局の眼を意識するために必要なことは、端的に、他の部局の意見を事前に聞いてみることだろう。

こうしたことを続けることで、各人は、会社全体の状況を把握していくことになる。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2017年01月24日 | Permalink

大学の授業のやり方が変わった。

40年位前は、教授が講義をし、学生はノートをとる方式だった。

現在は、教授は事前にレジュメを作成し、学生は講義中は聞くことに集中する。講義での坂書は、最後に学生が写真に撮る。つまり、学生は、講義を聞きながらノートをとることをしない。

講義を聞きながらノートをとることは、教授の講義の全体像を予想しながら、講義のポイントを整理する能力を必要とする。同列に並ぶものを区分し、論理の展開を把握することになる。

これに対して、現在の学生は、レジュメや講義での坂書を、そのまま覚える学習をすることになる。

この違いは、大きな差として出てくると思われる。

40年位前の学生は、学習事項の組立て方や論理展開について、自分で改めて整理し直す機会が出てきて、そこで柔軟な思考を鍛えることができる。

これに対して、現在の学生は、与えられた組立て方をそのまま受け入れてしまい、そこから柔軟に展開することをしなくなるのではないだろうか。教科書的な知識を振り回すことになるだろう。

こうした違いを現在の大学の人から聞くと、自分の経験がすべてではないことを改めて自覚する必要がある。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2017年01月10日 | Permalink

記録・保管

多くの文書は、普段から自分の体系に基づきファイルされる。

そのファイルも、時間が経過すれば、大部になり、古くなったものは、ファイルからはずし、資料のみ黒い紐でまとめておく。
新しいものをファイルに残すのは、あとからチェックすることがあり、その可能性が高いから。
黒い紐でまとめておくのは、処分しやすいから。

黒い紐でまとめた資料は、保管期間を経過すれば処分する。

しかし、このとき資料的価値があると判断すれば、永年保管とすることになる。

どのような資料を永年保管とするかは、責任者に任された事柄である。

自分の判断能力に謙虚であれば、多くを保管することになるであろうが、単にルーティン的なものは、思い切って処分しなければならない。

「もの」についてのミニマリストは、必要最小限のもののみ残すのであろうが、その判断はきわめて難しいと思う。自分の判断能力に謙虚であれば、将来の可能性のために、枠を大きめに設定するのではないかと思う。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2016年12月21日 | Permalink

自由を得たとき、何をするか?

収入の安定のため、「寄らば大樹の陰」を選択する人が多い。大樹の陰でも、自由はあるのだろう。

しかし、どこにも依存しない自由は、何物にも変えがたい。
努力の結果として、自由に近づいていける。

そのような自由をほぼ手に入れたとき、どのような感覚となるのだろうか。

どこまで行っても何らかの脅威はあるので、そこからの自由を求めて努力するのだろうか。

時間が余って困るのだろうか。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2016年12月08日 | Permalink

自分が持つものの体系

ハードからソフトまで、自分が持つものをいつでも取り出せるように、整理し、体系化しておく。
そのためには、不定期で良いから、時間があるときに、自分が持つもののすべてについて、その題目に眼を通し、整理・体系化をやり直してみることだ。
自分が持つものの保管場所を、どこかに集約することも考えるべきだろう。

その上で、何かに対峙するとき、自分の全体を総動員して対応する。

これが私の考える統合された自分のイメージだ。

整理・体系化されたものの内容は、理解し、記憶されているに越したことはないが、糸口をつかんでおいて、何か感じたときに、資料から引き出せればよい。

自分が持つものは、通読しても良いし、関係個所だけを拾い読みしても良い。
大事なことは、対峙するものも含めて、自分が持つもの同士が響きあって、さらに統合させていくことだ。

自分が持つものの全体をイメージできれば、個々のものについて、どれだけ時間をかけられるかもある程度判断できる。時間を浪費できなくなるだろう。個々のものについて、一言で説明することも考えるべきだろう。
ただし、時間をかけられないことから、個々のものについての取組みが、息の短いものになってしまうことは注意する必要がある。じっくり取り組む場合も考えるべきだ。

自分が持つものを必要最小限に抑えるミニマリストの考え方は、すべてを自分の中に記憶できれば良いが、それは困難であるから、何かに対峙するとき、出たとこ勝負になってしまうのではないかと思われる。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2016年11月28日 | Permalink

バブルの教訓

量的緩和をしても、マイナス金利を採用しても、デフレから脱却できない。2パーセントの物価上昇を実現できない。

これは、経済の主要な参加者(プレイヤー)が、バブルに無理やり持ち込んでも、バブルは所詮バブルだという教訓を得ているからである。
多くのプレイヤーは、上がる見込みがあるからといって、それを追いかけても、どこかで破綻すると感じている。
したがって、あまり追いかけない。

これは健全な感覚だと思う。

同じように、人件費を上げることも、労働問題で苦労した経験がある経営者は、簡単には応じないだろう。
従業員の給与を上げても、またどこかで苦労すると感じている。

歴史は繰り返すというが、教訓は、かなり影響が残ると思われる。
世の中が教訓を忘れた人だけになったり、教訓が残っているときでも、さらにその上にまた新しい教訓を得る事態にならない限り、簡単には歴史は繰り返さないだろうと思う。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2016年11月18日 | Permalink

知らない地域を旅する感覚

ある地域をある程度調べて旅しても、意外なことは出てくる。
旅したところで何か資料や物品を買うと、そこからまた意外なことが出てくる。

あいちトリエンナーレで多くの映像プログラムを見たが、分からない映像の方が多く、理解したという感覚は得られなかった。しかし、知らない地域を旅しているのだと考えれば、すべてを理解できないのは当然のことであり、気にすることではないと思う。

あいちトリエンナーレのパフォーミング・アーツでも、同じことは感ずる。

視覚だけでなく、聴覚などそれ以外の分野でも、知らない地域を旅する感覚は必要だろう。

文章だとそれが理解できて当然(理解できないのは、文章が悪い)と考えてきたが、ここでも知らない地域を旅する感覚は必要だろう。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2016年11月11日 | Permalink

相続の紛争を、どのように防ぐか?

相続人の間で遺産分割の仕方について合意できていれば、争いは生じない。

ただし、生前にそのような合意をしても無効とするのが、法律の立場。したがって、生前には合意できていても、それをひっくり返すことはできてしまう。

このため、遺言をする必要があることになる。
ただし、遺言でも、全く自由になるものではなく、各相続人の遺留分を侵害すると、その限度で、もらいすぎた人は返さなければならない制度はある。

これが現在の法制度であるが、本来は、相続人の間で、分割の仕方についてきちんと合意できていることが大事だと思う。親と子らの間で、信頼関係があることこそ重要だ。

そのためには、幼少の頃からの育て方、成人してからの生活態度への注意など、親が考えなければならない。

基本は、
「財産は、自分で稼げ。」
「財産は、子孫のために預かっているにすぎない。」
「親も、自分たちも、兄弟間で比較するな。」
「財産の管理は、能力のある者に任せよ。」


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2016年10月27日 | Permalink

朗らかに、愛想よく。

こちらが相手方に対して何か配慮しているときに、その相手方が、ぶすっとした態度のまま通り過ぎてしまう、ということをよく経験する。おじさんに多い。

配慮されて当然と考えているのかもしれないが、それが日常になってしまうと、相手方の配慮に対する機敏な返礼ができなくなるだろう。機敏な返礼は、コミュニケーションの1つだ。機敏な返礼ができないということは、コミュニケーションができないということに結びつく。

そうなると、本当にコミュニケーションが必要な大事なときに、それができないことになる。その損失は計り知れないだろう。

日ごろから、意識しなくとも、機敏な返礼ができるように、心がけておくべきだ。少し口角を上げるだけでも、意味がある。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2016年10月20日 | Permalink

事業主の支え

事業主が、人を雇って事業を展開するとき、雇った人に対して、いかに囲い込みをかけるかは重要だ。

多くの事業主は、工業の時代は、機械制工場を持ち、雇った人がそこで働かざるを得ない環境を作ることで囲い込みをかけた。
しかし、機械制工場があるだけでは利潤が得られないようになるにつれ、雇う人の能力に重きが置かれることになった。雇われた人は、自分の判断で独立したり、転職することができる。事業主は、投下した資金、時間を無駄にすることが起きてくる。

機械制工場だけではなく、パテント、ノウハウなど知的財産を管理する必要がある。重要な技術を守り、それ以外の分野を外注に出すなど、事業主は、管理する範囲を限定することが必要だ。

オートメーション化で、人の変動(人件費の増加、退職)を避けることも必要だ。


投稿者名 前川弘美 投稿日時 2016年10月12日 | Permalink