アメリカン・ポップ・アート展(国立新美術館)

 ジョン・アンド・キミコ・パワーズ夫妻のコレクッションを見てきた。1960年代以降の作品とのこと。
 多くのアメリカの巨匠の作品を通覧できたが、素人のぱっと見の感想としては、アンディ・ウォーホルが、色彩として、引かれた。
 ウォーホルは、芸術家は、HERO(ヒーロー)ではなく、ZERO(ゼロ)だと言っており、芸術家の主観性を否定し、何でも写し込む、鏡のような芸術を肯定しているのだろうと、とらえている。
 これまで作品を、具象と抽象の軸において、比べていたが、HERO(ヒーロー)かZERO(ゼロ)かという軸もありうると考えを改めている。
 ウォーホルは、カタログ・レゾネの印刷で見るよりも、実際の作品の方が、はるかに美しいと思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年10月02日 | Permalink

経営者・事業主の妻

 経営者・事業主の配偶者(多くは、妻)にお目にかかることは、それほどないものだが、離婚の相談を受けることも多く、弁護士として、それなりに見てきたと思う。
 自分の体験を一般化してはいけないが、経営者・事業主の多くは、何らかの形で、妻にコントロールされていることが多いと思う。すごく控えめな奥さんだと思うことも多いし、うまく夫を立てていると感ずることも多い。
 しかし、問題が多いと感ずることもある。問題は、いろいろだが、共通するところがある。
一番感ずるのは、経営者・事業主として経済的に成功している夫の場合、妻も自分の力と考える点だろう。夫婦で力を合わせているのだから、離婚の財産分与でも、原則、半々に分けられるように、成果が妻にも与えられることは当然だと思う。
 しかし、事業の能力に関しては、夫婦は別だと感じられることは多い。経済的な成功が人生のすべてではないが、基盤ではあると思われ、それを実現する力について、それなりの評価は必要だと思う。
 この点が分かっているかどうか、妻である人には、大差があると思う。離婚の場合は、これまでの清算だから、この点は、あまり問題ではないかもしれないが、これからも生活をしていく場合は、夫に能力を発揮してもらわなければならないだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年09月10日 | Permalink

企業の承継にあたり、課題をどのようにつかんでいるか。

 経営のトップは、同族企業の場合、親子、兄弟の間で変更し、承継されることが多いだろう。この時、どのような時期に承継を行なうかが、問題となる。

 年齢、体力など、いろいろな判断要素があるのだろうが、私がなるほどと思ったことがあるのは、企業の課題をつかみ、自分の役割との関係で、その課題を区切り、自分なりに実現した段階で、次の世代に承継するというやり方である。この方法は、次の世代との間でも、企業の課題を共有している。

 課題のつかみ方は、いろいろだと思うが、規模の拡大を考えるのではなく、取り組むべき分野など、その企業の強みに関する理解を深めることを行なうべきだろう。
 このように課題をとらえ、共有するならば、承継は、うまくいくと思う。承継の時期は、単純に年齢などで決めるのではなく、課題の連鎖の中で、役割分担として考えることになる。
 承継させる者と承継する者との間で、課題の押し付けは、避けるべきだと思うが、役割分担のとらえ方が、互いに一致すると、強い承継となると思う。こうすると、承継させる者には、踏ん切りがつき、承継する者には、責任感・覚悟ができるだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年08月21日 | Permalink

売れる絵と売り絵

 この違いは、どこにあるのかを、売れる絵(仮)展(企画発案者 愛知県芸芸術学4年 竹中愛咲子さん)で取り上げられていた。

「「売り絵」と「売れる絵」は違います。
「売れる絵」というのは「売り絵」とは全く別で、どんなテーマであろうと、どんな時代や環境であろうと売れる作品です。「売れる絵」を描きなさいというと、世間のニーズに合わせたいわゆる「売り絵」を描けと思われる人もいますが、「売れる絵」というのは作家の個性を生かしながらアート商品としても「売れる絵」ということです。そのことを今回、学生の皆様に考えて制作をしてみていただきたいと思い、企画しました。」

 売れる絵(仮)展は、作家に対して、考える機会を持ってもらおうとするものである。したがって、作る立場の目線であると思う。もう少し、コレクター目線で考えるとどうだろうか?
 売れる絵は、客観的な結果であり、市場の問題なのに対して、売り絵は、作家の思惑である。
 美術作家の場合、我が道を行く武勇伝が、実際以上に語られるため、どうしても客観性・市場性がなおざりにされるきらいがあると思う。経済の世界でよく言われる言葉に、「市場との対話」がある。私は、美術作家も、市場との対話を少しは考えた方が良いと考えている。

 しかし、美術作家にとっての市場との対話は、どのようにされるべきかは、難しい問題だろう。人気作家のまねをすることではないだろう。市場との対話は、意図してできるものでもないのかもしれない。そうすると、市場との対話など考えないで、わが道を行けという考え方にもなってしまうだろう。

 少なくとも、美術作家も、購入者がいるのだから、その人たちとのコミュニケーションはとるべきだろう。私は、これは当たり前のことだと思うが、これが十分なされているとは思えないことが、多くある。特に、現代美術は、その面が強いと感じている。
 


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年08月12日 | Permalink

林望さんの「減蓄」 2013年7月28日、日本経済新聞掲載

 「減蓄」とは、貯蓄の反対で、資産を処分していくことのようだ。
 書籍の処分についても触れられており、子供さんたちの仕事が自分とは違うため、蔵書の価値がないと判断し、処分されているようだ。
 オフィスに使っていたマンションや、別荘、相続した投資用の収益不動産も処分されたとのことだ。
 林望さんは、1949年生まれとのことで、ここまで踏み切るのは、正直、まだ早いような気がした。
 物をお金にするということは、含み益の確定か、管理・処分をしやすくするということだ。その必要性があれば、合理性があると思うが、それは人それぞれだから、私がコメントする立場にはない。
 ただ、「子孫のために美田を買わず」という考え方や、「人間本来の無一物に帰してきれいに死にたいもの」という考え方があり、それとの関係では、関心がある。私は、まだこのような考え方との折り合いをつけられていないのだ。
 「お金は使って初めて完結する」という考え方は、理解できるが、何に使うのかは、まだ分からないのが現状だ。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年07月30日 | Permalink

美術品を購入するときの考え方

 美術品は、それほどたくさん購入することはできないのではないかと、最近考えている。
 その人の経済力にかかる問題だと考える方もみえるかもしれないが、それだけではないと思う。購入しても保管しているだけということになりかねない。
 美術品は、友人に近い存在であり、友人として付き合うためには、数に限界があると思われる。また、ひょっとすると、友人関係というよりも、結婚に近い関係かもしれない。重婚が認められるとしても、その数は、限定されるだろう。
 美術品との関係は、結局、人間関係に近い。
 友人として選び、付き合い、疎遠になることもあり、友人関係が途切れることもある。結婚に至ることもあり、離婚となることもある。
 選ぶときは、よく研究もし、直感で判断することもあり、人間観察だけに終わることもある。
 自分の好みがあいまいなときもあるだろうし、好みが変遷することもある。
 好みではなく、実利を重視することもあるだろう。
 しかし、人間関係が不可欠であることは、変らないだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年07月22日 | Permalink

経験こそが、最大の財産であり、面白さである。

 お金は、あるに越したことはないだろうが、それだけでは、片手落ちだと思う。それは道具を手にしたというにすぎない。したがって、生きるためにお金を稼いだという生き方は、不完全だ。
 「人生で、自分はこういうことを経験した。そのために、これだけのお金はかかったが、必要だったものは、それだけではなかった。むしろ経験のためには、これが必要だった。経験の結果、自分は面白い人生を歩んだ。面白かった。安楽ではなく、悲しいこと・つらいこともあったが、面白いといえる。」と、行きたい。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年07月17日 | Permalink

作家が見直されるとき

 世のマネーは、色々な動きをする。
 オークションを見ていると、多くは、すでに評価された作家であることが多い。新しい作家が、紹介を兼ねて出品されることもあると聞くが、落札結果は悲惨なこともあり、出品は、すでに評価された作家の作品へと傾く。したがって、マネーは、一部の作家へ集中する。これがマネーの基本的な動きだろう。
 しかし、マネーが増えているとき、作家の掘り起しが出てくる。美術館クラスの作家の作品は、すでに美術館に収まり、出てこないことが多いだろうが、それでも何らかの理由で注目されるとき、その周辺の作家にも注目が集まる。マネーは、こうした時、その作家に向かう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年07月12日 | Permalink

自分が亡くなった後

 父母が亡くなったときを思い浮かべ、自分が亡くなった後を考えてみる。あの世のことではなく、自分が亡くなった後のこの世のことである。
 自分が一番大事だと思うものは、これまで自分が築いてきた、自分の体系だと思う。自分なりの、世界の理解の仕方など、大事ではないかと思う。
 自分の体系を説明するものは、自分の活動範囲を起点として、これまでに経験した事柄として、蓄積されているはずだ。それは自分の言葉で表現されているものは、実際には少なく、購入した書籍・物、撮った写真、受けとった物などの形をとっているだろう。
 象徴的には、自分の席に他の人が座ることにより、自分の体系を感じてもらえるだろう。
 しかし、自分の席は、いつまでも空けておくことはできない。今生きている人が、利用していかなければならないからだ。すると、自分の体系は、ばらけていくだろう。
 こうした点で、自分の記録をクラウドに保管することは、意味があるだろう。父母に聞いてみたいと思ったとき、聞けなくなっていることが、父母の死を一番実感する。
 自分の体系は、誰でも理解できるものではないが、一番理解して欲しい人に利用してもらえるように、工夫する必要がある。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年07月01日 | Permalink

収益モデル

 収益を生み出す方法は、いろいろある。多くの人は、他人の下で働いて、給与を得る方法を選ぶため、収益を生み出す方法を具体的に考えることは少ないだろう。
 しかし、自営業の人であれば、収益を生み出す方法について、考えるだろうし、そうしなければならないはずだと思う。
 収益を生み出す方法が決まり、それを自動化できれば、「金のなる木」となる。人の組織化で運営する場合も、自動化の一種だろう。
 自動化ができ、その収益の範囲で再投資していけば、さらに成長する。
 こうしたことは、当たり前のことだと思われるかもしれないが、自分の仕事について、こうした形でモデル化している人は、少ないように思う。自分の仕事を、収益モデルとして、大づかみにすることを勧める。それによって、他の収益モデルと比較ができるようになると面白いだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年06月18日 | Permalink