海外投資が華やかなりし頃

 BRICsが成長著しい頃、日本の不動産からの賃料収入と、海外投資による収益と、を比べてみたことがある。中国株で1億円を貯められるというようなことが広く言われた時代であったので、海外投資に眼を向けた人も多いと思う。
 その後、リーマンショックがあり、さらに、そこからどれでけ回復したかが比較される時代となった。円高が進行し、円換算すると評価損が出る時代であったり、円安が進行して、利益が回復する時代になったり、振り返れば変動が激しい。海外投資のサイトも、様変わりしているように思う。
 それに比べると、日本の不動産は、価格下落もあったものの、日本の不動産からの賃料収入は、海外投資ほどの変動はないように思う。
 だからと言って、何か教訓めいた結論を出すつもりはない。むしろ、いろいろ経験された人は、面白い時代だったのではないかと思う。お金を稼ぐことも面白いのかもしれないが、経験を積むことは、それ以上に面白いのではないかと考えている。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年06月11日 | Permalink

コレクターが作品を売却するとき

 作品を保管するためには、スペースが必要であり、相当の注意も要する。この点で、コレクターにとって、収集できる作品数の限界があるだろう。
 収集しても、それを展示する機会は、意外に少ないと感ずる。自らの関心の程度にもよるだろうし、作品の大きさから来る手間も影響する。
 流行・ランキングの変化から、作品も盛衰があるだろう。自らの関心の変化もある。
 プライマリーで購入したものは、なかなか売却できないものだろうが、投資家の観点に立ってしまえば、数字の評価は歴然としている。

 コレクターは、こうした状況の中で、作品を売却することになる。売却することにより、コレクターは、次の展開を考えることになる。
 世の中では、作品を購入する人は、ごくわずかのようだ。これは経済的な余裕の問題でもあるが、むしろコレクターの姿が知られていないことが原因だろう。大コレクターは別として、普通の人であるコレクターの姿が知られていないと思う。特に、作品を売却することが、知られていないと思う。この点が、日本のアート界の問題だろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年05月15日 | Permalink

親心

 この言葉は良い言葉だと、いつも感ずる。
 親である立場の人に対しても使えるし、子である立場の人に対しても使える。親子の情愛が分からない人に対しては、使えないのかもしれないが、それがいくばくかある人に対しては、分かってもらえることになる。
 単純な合理性ではなく、奥にねらいがある場合は、よくあることであり、そこを理解してもらうことは必要なことが多いと思う。そのとき「親心」という言葉がぴったりする。
 逆に、「親心」という言葉が、親子の間で生きている関係が必要なのだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年05月07日 | Permalink

「これからがんばると言っているんだから、がんばろうという気持ちを失くさせないで欲しい。」

 このような精神論は、扱いにくい。特に、勉強に関してはそうだろう。
 がんばろうという気持ちを失くさせたくはない。しかし、その方法は甘すぎると思われる。このようなとき、どうしたら良いのだろうか?
 先ず、精神論だけでは、身の破滅に至ることを説明するべきだろう。第2次世界大戦の日本の敗戦など、このような例は多いだろう。
 次に、精神論に代わる考え方を示すべきだ。戦争は、基本的に人員数・物量により決まる。(性能の良い武器は、対応量の高いものとしてカウントする。)織田信長も、桶狭間の戦いは特別なケースで、多くの戦は、人員数・物量で優位に立つものであったと聞く。精神論ではなく、物量をチェックするべきだろう。
 常日頃は、怠けていて、肝心のときだけ、幸運を祈っても、有利な展開は望めない。常日頃の努力で、圧倒的優位を作り出し、その上で、油断することなく、勝つべくして勝つことを目指すべきだ。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年04月12日 | Permalink

豊かに生きるためには、質(クオリティ)を問うことになる。

 お金をかけることがすべてではなく、脳の中での作用が必要になる。「物語が必要」というとらえ方も同じ考え方だろう。
 脳の中での作用となると、きわめて個別的な問題となる。
 もちろん「憧れ」が働く余地は大きいだろうから、流行のような、多くの人が同じ趣向を持つことはあるだろう。しかし、他の人からの影響を少なくし、自らが求めるものを追求すれば、きわめて個別的な問題となる。
 個別的な問題として、それぞれが自分の考え方で進むと、そこでスタイルができる。スタイルは、色々となるだろうが、現実には、自分が独自だと考えていても、同じような境地に達する人は何人も出てくる。
 また、他の人からの影響を少なくするといっても、全く影響を受けないことはなく、むしろ良いところは参考にすればよい。
 こうして自分の境地ができた人は、自分と近い人と何らかの連携をとるだろう。質(クオリティ)は、この連携の中でできてくる。
 成熟した社会で生きるということは、こうして生まれる質(クオリティ)を問うことだと考えている。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年03月25日 | Permalink

自分の子が後を継がないことを、どう受けとめるべきか?

 自分(親)が行なっている事業が、後継者(子)にとって魅力がない場合、後を継いでくれないことは、やむをえないことかもしれない。自分の事業よりも、子が起こした事業の方が、隆盛であることは、ありうることだろう。
 しかし、自分の事業の方が、子が取り組もうとしている事業よりも、収益性があり、安定している場合、親としては、気分は晴れないだろう。
 このような場合でも、「子どもには子どもの考えがある。」ということで、諦めるべきなのだろうか?多くの親のジレンマは、こんなときだと思う。
 しかし、自分(親)が行なっている事業の魅力を伝え切れなかったのは、まさしく自分である。子に無理強いしても、事業としては成功しないだろう。
 逆に、子に能力の点で問題がある場合、決断を迫られることになる。周到な準備を、人知れず行なうしかないだろうと思う。
 このように考えてくると、結局、子がどうであるかにかかわらず、自分(親)がどうするか、何ができるかの問題だと思う。自分の判断に基づき、家族・事業を組み立てていくしかない。これは極めて孤独な仕事だと思われる。どうしても子に期待をしてしまうが、そこは厳格に判断し、ありのままを受け入れるしかない。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年03月06日 | Permalink

遺品の管理

 亡くなった人が使っていたものをどうするか悩ましいことがある。
 自分では捨てられないとき、保管することになる。捨てられないのは、亡くなった人の思い出があるからだろう。
 1つの方法として、透明なボックスを購入し、そこに保管することは、どうだろうか。透明度の高い、ほこりが入らない密閉性があり、積上げられるボックスならば、棚に置くことができる。
 ボックスの中での並べ方は、その人の感覚に任せる。また、ボックスに入りきらないものは、処分する。
 こうして出来上がるボックスは、また格別なものとなる。
 ただし、こうしたボックスを遺された、自分の相続人がどうするかという問題は残る。そこは、ボックスの意味合いにより決まるのだろう。何か意味を見つけられれば、残してくれるだろう。自分の相続人が、保管スペースとの兼ね合いで処分することは自由だろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年02月25日 | Permalink

現代の巡礼

 巡礼としては、四国88ヵ所遍路が有名だが、西国33所観音巡礼など、各地にある。多くは、弘法大師、観世音菩薩にゆかりのあるお寺を巡るものだ。
 私も、少し巡礼をしてみて思うところは、宗教的な意味も中心にあるのだろうが、芸術、建築を巡る旅の意味合いが大きいという点だ。また、お寺だけでなく、お寺からお寺への道すがら、お茶、食べ物から史跡、旅館まで、色々な文化に接することになるという点だ。目的のお寺だけ巡るというのではなく、地元の人の話も聞きながら、少し余裕を持って周辺にも足を伸ばしてみるのが良いと思う。
 こうした点で、美術館を巡ることも、同じような意味合いがあると思う。
 美術品と美術館の関係は、論ずれば色々あるだろうが、両方を見ることになるだろう。
 振り返れば、色々な美術館を訪れたが、その結果得られる、全体を見た把握・印象ができてくるように思う。それは何かを、少し考え、表現したいと思うが、何かがあることは確かだと思う。
 自分にとっての「現代の巡礼」を考え、実行してみても良いのではないかと思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年02月20日 | Permalink

「やっとマネジメントに、専念できるようになった。」

 これは随分前に、ある経営者の方から聞いた言葉で、印象に残っているものだ。その方の会社は、今では全国で展開する大きな会社になっている。
 これを聞いたとき(今でもかもしれないが)、私は、まだ自分で行なわなければならないと考える、個人職人のような考え方だった。
 しかし、この言葉を聞いて、マネジメントという言葉を意識するようになった。
 マネジメントというと、専門書の世界であり、管理という色彩が強く感じられる。しかし、ドラッカーを読むと、チームとしての人間関係全般のことであり、書物の知識だけでなく、現場での体験としてのマネジメントを考える必要があることに気がつく。
 マネジメントということを誤解したり、意識しないで行動している人が、意外に多いように感ずる。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年02月19日 | Permalink

自分はどのように仕事をしたいか。

 自分の仕事を決めたことを前提として、その仕事をどのように進めていくのか、考えてみるべきだろう。これは、勤務者にとっては、自分だけでは決められないことかもしれないが、自分で仕事を始められる人は、よく考えてみるべきだろう。
 人は独立するときには、こうしたことを考え、自分の希望する仕事場を作る。しかし、日常の仕事に追われると、自分はどのように仕事をしたいかを考えなくなる。
 自分は、どのように仕事をするとき、面白いと感じるのか、がポイントだろう。具体的には、外部の関係者とどのように話をすることになるか、その場所はどのようか、どうすればお互い面白いと感じてもらえる工夫となるか、内部の関係者とはどうするか、などだ。
 経済的なことだけでなく、仕事の質を問うことになると思われる。


投稿者名 管理者 投稿日時 2013年02月14日 | Permalink