「子どもには子どもの考えがある。」
カリール・ジブラン「預言者」の中に、「子どもについて」の記述がある。
「子どもの魂はあしたの家に住んでいて、あなた達は夢のなかでさえ、その家へは行けない。」ともある。
詩的な表現だが、厳しい言葉でもある。
成功している人は、どうしても子どもに同等を期待する。期待に反すると気落ちすることもある。
しかし、「子どもには子どもの考えがある。」ことを明確に意識しよう。その上で、親としてできることを考えよう。これは見返りを求めることとは対極にある。
カリール・ジブラン「預言者」の中に、「子どもについて」の記述がある。
「子どもの魂はあしたの家に住んでいて、あなた達は夢のなかでさえ、その家へは行けない。」ともある。
詩的な表現だが、厳しい言葉でもある。
成功している人は、どうしても子どもに同等を期待する。期待に反すると気落ちすることもある。
しかし、「子どもには子どもの考えがある。」ことを明確に意識しよう。その上で、親としてできることを考えよう。これは見返りを求めることとは対極にある。
白隠の画業は、まったくの独学であり、研究者が「若描き」と呼ぶものが60歳代の作であり、画業のピークが80歳を超えてからであり、現存作品が1万点を超すのではないかと推測されるとのことである。しかるに、美術史としては、取り上げられてこなかったという。
白隠展を見て、白隠の生涯を考えると、感銘を受けた。1つだけの作品でも分かるのかもしれないが、通しで見ることは必要だと感じた。
また、絵とともにある「賛」(文字による記述)は、理解を助け、また、考えさせる。絵画作品が主だという考え方もあるだろうが、総合して理解すれば良いと思う。
美術作品は、それぞれが独立したものであり、1つだけの作品でも判断できるという考え方があるだろうが、私は、作家の人となりを観ることへと向かうことになる。(このあたりは、専門的な議論があるところだろうと思うが、詳しくはない。)
白隠が、美術史としては、取り上げられてこなかったのは、作家の人となりに対して眼が向かわなかったからだろう。しかし、白隠は、宗教家としては、その人となりに対して大きな共感があるようなので、大きな評価を受け、親しみも込められているようだ。美術を、美術としてだけ切り取ることには、注意を要すると思う。
話の概要
三八式歩兵銃は、後で知ったが、明治38年に作られた銃であり、アメリカの兵器と比べるまでもなく、それで勝てるはずはない。
何かミスを見つけられると、三八式歩兵銃を自分の前で掲げるよう言われた。三八式歩兵銃は、結構重く、大変だった。すると、「三八式歩兵銃は、もう許してくれたか?」と聞かれた。「まだであります。」と答えると、そのままか掲げさせられた。しばらくして、また「三八式歩兵銃は、もう許してくれたか?」と聞かれたので、もう力の限界で、「はい、許していただきました。」と答えると、「ばかやろう。銃が言葉をしゃべるか!」と言われ、叩かれた。
軍隊では、それぞれの隊で保管する品が、きちんとあるかどうかを検査される。もしも欠けていると、その隊は革のベルトでたたかれる。げんこつや平手で叩くことは、叩く者も痛いため、このようにする。
検査の前など、他の隊の保管品を盗みに入る輩が出てくる。それは自分の隊の保管品をそろえるためでもあるだろうし、他の隊に対する意地悪でもあるのだろう。
兵の宿舎の真ん中に通路があり、通路の近くが下の兵隊が使い、上官は奥を使っている。侵入されやすいところには、詰めて寝るようにして、侵入を防いでいた。
ところが、検査になると、保管品はそろっていた。
後に、上官になったとき、前の上官から、壁の一部をはずすことができ、そこに備品を保管していることを聞かされ、引継ぎを受けた。これで補充をしていたということだ。
軍隊では、このようなことが行なわれていた。
日本が敗戦を受け入れてからも、備品の管理をしていたところ、砂糖や食料などがたくさん出てきて、あるところにはあるものだと感じていた。ところが、兵隊の中にはそれを盗み去るものが出てきた。このため、管理が悪いと言うことで、戦争が終わってからも叩かれてしまった。
これに対して、自分が隊を離れるときは、大正7年製造の乾麺が少し渡されただけだった。
コメント
日本の軍隊の行動は、滑稽とさえ映る。これでよく戦争ができたものだとさえ思う。
しかし、組織が大きくなったとき、こうしたことはいくらでも起こりうると考え、対応するべきだと思う。組織を当てにせず、また、期待せず、自ら行なうべき事を行なうという生き方をとるべきだ。
人生では、その人その人の境遇があるので、どうしても他人と比べてしまう。「自分の境遇を受け入れよ。」と言われても、なかなか難しい。
また、人生を有意義なものにしたいと考え、努力するけれども、思ったようにならないと感じ、落ち込むことも多いだろう。
人生をどのように過ごすかに関しては、多くの名著があり、また、友人とも話をして、自分で見つけていくしかないだろう。
私は、別に人生について悩んだというほどのことはないが、いろいろな人の人生を垣間見て、自分と比較もし、また、比較する必要もないとも考え、自由に生きてきた。人の話も相当数聴き、名著といわれるものも読んできた。その中で自分なりに決断し、決断というほどのことでもない選択をしてきた。こうした来し方は、実験というに近い。
自分の境遇は、実験にあたり、与えられたもの(与件)であり、気にするものでもないと考えてきた。
人生を有意義なものにしたいと考えたこともあるけれども、結果を楽しみ、気が重いときでも、そういうものとして味わう。
これが現時点の考え方である。
大須観音は、国宝の「古事記」をはじめ、古典籍の宝庫であることは、知らなかった。「古事記」の写本の中で一番古く、最善本と評価されている。
このことが実現したのは、多くのことが積み重ねられた結果である。
1 大須観音(真福寺)初代の能信(伊勢出身)が、多くの弟子を率いて書写を始めたこと
2 真福寺は、木曽川・長良川のデルタ地帯にあったが、徳川家康は、洪水の被害を心配して、文庫をお寺ごと、現在の場所に移転させたこと
3 東大教授の黒板勝美が、本格的調査・整理を行い、詳細な目録を完成させ、耐火性の高い鉄筋コンクリート造の建物に文庫を保管したこと(名古屋大空襲により、大須観音の伽藍が街もろとも焼失した中で、文庫は残った。)
などなど。
文庫を宝とした考え方に感銘を受ける。また、承継のための努力・判断にも感銘を受ける。
これに対して、現在は、「文庫」として残すものが何かを考えなければならないだろう。
壊れたり、傷ついたりすれば、それだけ価値が下がるのだろう。保存状態は、査定の対象となるようだ。
このような問題は除外して、美術品は、いつまでも価値が変らないものだろうか。価値を、売却できる金額とするならば、市場の評価で常に変ることになる。金額ではないのだと考えるのであれば、その人の考える価値で良いのだろう。この2つの立場は、いつもせめぎあうことになるのではないかと思う。
しかし、保管スペースの問題があるから、すべての美術品が完全に残ることは難しいだろう。新しい美術家は、次から次へと登場するから、作品も増え続ける。美術館の数は、限界があると考えるので、どこかで作品は埋もれていくことになる。
このように考えると、美術品の価値についても限界があると考えざるを得ないだろう。多くの人の目に触れることにより、その人の作品と直ちに認知されるくらいになれば、作品は残る。美術家は、そこを考えざるを得ないだろう。きわめて厳しい道というしかない。
自分の経済力と、人生のそのときどきの経済状況により、どのような不動産を取得できるかは変っていく。
人によって、どのような不動産が必要かは違ってくるし、そもそも不動産に対する見方・評価も違うから、絶対的な正解があるとは考えていない。
しかし、普通の人は、人生で、そう多くの不動産に関与するものではないから、研究の余地が非常に大きい分野であり、経験者の話を聞くことは必要だろうと思う。
私が考えるところは、不動産については、自分で経験して学んでいく必要があるということだ。「何だ、答えになっていないではないか。」と思われるだろう。言いたいことは、こうだ。不動産は、1つ関与することにより、人は、大いに研究するものだ。経験者の話も実感として理解できる。その経験に基づいて、次の不動産に関与するべきだということ。
年配者としては、若い人が不動産を取得したとき、その心情がよく分かる(と思う)。経済力が大きく違わなければ、皆、同じような体験をするものだと思う。しかし、頭だけで考えていても、不動産を取得した人の気持ちは、分からないだろうと思う。
コレクターは、どのような場合、所有している作品を売却するのだろうか。
お金が必要になり、換価する場合が一番多いのだろう。それ以外には、どのような場合だろうか。
コレクションのためには、それなりの保管スペースが必要である。そのための費用もかかる。したがって、保管スペースの確保が、経済的に合わない場合、売却することになるだろう。
コレクションを、投資と割り切るならば、株式と同じく、安く買えて、高くなったならば、売却することになるだろう。
自分のコレクションの組み立て方ができてきて、それから外れるものは、売却することになるだろう。好みの変化も、ここに含めてよいだろう。
そもそも美術作品は、買ったり売ったりして、楽しめばよいだけかもしれない。ポートフォリオの感覚は、必要だと思う。そうしないと、美術館を作ることになってしまうか、美術館に寄贈することになるのではないか。
10億円資産があったとしても、1万円が払えなければ、債務不履行となる。このことは、頭では分かっていても、骨身にしみて分かるためには、経験が必要だろう。
キャッシュフローのひっ迫は、徐々に来るというよりは、あるとき突然気がつくという感じだろう。多くの経理責任者は、日頃から、資金の余裕を持つように考えているだろうが、金融機関と条件を詰めるとき、余裕があると甘くなるものだと思う。こうした詰めの甘さは、将来、どこかで気がつく。しかし、後では、それを簡単には変えられない。
こうした気付き・経験は、貴重であり、後継者に伝える必要がある。
お遍路や札所めぐりは、自分には、まだまだ先だと考えてきたが、最近、90歳を超える方とお話をしていて、考え方が違ってきた。
「納経帳は、2つ作っておきなさいよ。」という話が、一番印象に残る。奥さんといろいろなお遍路や札所めぐりをしてきたが、奥さんが先に亡くなったとき、納経帳をお棺に入れてあげたので、1つしか作らなかった所は、残っていないのだった。
その方は、お遍路や札所めぐりを若いときから行なっていたが、白装束を着て行なったものでもないし、信心があったものでもないとのことだった。歩いて回った所もあるし、タクシーで回った所もあるし、自分で運転して行った所もあった。そうすることによって、日本には良いところがたくさんあることに気がついた。じっくり見れば、見るべき所はいくらでもあるとのことだった。気持ちも変ってきたのだろうと思う。
こうした気持ちは、少し分かる気がする。