ジェニファー・バートレットと森山大道

 ジェニファー・バートレットのIn the Garden♯190を見てから、森山大道のstray dog,Misawaを見ると、黒色が作る構造に思い至る。
 ともに具象作品なのだが、黒色の構造に眼がいくと、抽象化が始まる。
 抽象作品は、作家がどのように、その作品に至ったのか不明であることが多く、自分自身の一方的な考えで見方を展開していくしかない。自分自身の一方的なものだけに、正解を求めると、自信が持てず、抽象作品を敬遠することにもなってしまう。
 これに対して、具象作品の中に抽象を見つけると、まだあやふや感が少なく感ずる。
 しかし、抽象作品でも具象作品でも、抽象の世界に至る道筋はあるのだと思う。スタートが抽象作品か具象作品かで違える必要はないのだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年11月12日 | Permalink

社会の仕組

 社会の仕組の多くは、「強者」と「弱者」の調整だと思われる。
「弱者」は、自ら獲得したもの以外に援助を求める。
「強者」は、自ら獲得したもので生きていくべきだと原則を言っていても、治安が悪化したり、難民が押し寄せてきてしまっては、元も子もないので、そうならないように何らかの援助を考えざるを得ない。
「強者」と「弱者」の調整のために、政治家、官僚機構がある。

 EUでのドイツとギリシャの綱引きも、この例が当てはまるだろう。
 日本での、年金、介護保険、医療保険、生活保護の制度も、同じである。
高齢化が、ますます進む日本、世界では、「強者」と「弱者」の調整は難しい問題だ。

 しかし、ここで社会のことを考えるべきだと言いたいのではない。それぞれの立場で(自分が「強者」なのか「弱者」なのか判断して)、自分で行動すれば良いと思う。調整役の政治家、官僚機構をどのように選ぶかは、大きな問題だと思うが、そのことにも拘束されないようにしたい。調整役の政治家、官僚機構に対して、期待もしなければ、悪態もつかない。マスコミと一緒になって、批判していても、何の意味もないだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年11月08日 | Permalink

「生活ができていれば良い。」で終わらせないことを考えるべきだ。

 ビジネスを、その日の自分が暮らせればよいと考えて進める人が多いと思う。生業(なりわい)なので、それでも良いという考え方もあるとは思う。人口減少の社会では、ビジネスは、そもそも誰がやっても難しい面があるのは確かだ。
 しかし、「生活ができていれば良い。」で終わらせないことを、やはり考えるべきだと思う。そうしないと、必死さに結びつかないだろう。必死さがないと、じり貧になる。

 ビジネスの上で、ある程度成功している人の話を聞いたり、読んだりしていると、存亡の危機という状況を経験している人が多いと思う。それはお金の使い方を、ぎりぎりまで効率的にすることにより生ずるのではないかと思う。ちょっとか、かなり背伸びしている面があるということだ。
 存亡の危機では、あらゆるものを使って存続を図っている。気がつくことは、全て実行する。実行してみることにより、意外に広い世界が見つかるものだと思う。案ずるより産むが易し。こうした経験が、自分を変えることに結びつく。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年11月07日 | Permalink

「おばあちゃんとして生きたかった。」

 弁護士として、離婚に関連した紛争の中で対応しているとき、相手方の女性から、「離婚などしないで、おばあちゃんとして生きたかった。」と言われたことがあり、「はっ」としたことがある。ただし、その女性は、自ら離婚手続を始めているので、無理やり離婚を求められたものではない。

 「喜びも悲しみも幾歳月」のように、人生で色々あったが、最後は、おじいちゃん、おばあちゃんとして残ったというのは良いことだと、年を経て感ずる。相手方の女性も、このことを感じていたのかもしれない。私は、そのことに「はっ」としたのである。しかし、同時に、それならば、もっと別の道を考えた方が良かったのではないかとも思った。

 人生の全体を頭において物事を決めることは、誰にとっても難しいことだろう。また、そのようなアドバイスは、昨今、受けにくい。我慢することを最初から求めるものではないが、我慢も大事だと思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年11月01日 | Permalink

増税社会の姿

 政治は、自分ではコントロールできない要因だと考えているので、どうあるべきだとは言わない。むしろ政治の変化を前提(外部要因)として、将来の社会の姿について、素人の予想をしてみようと思う。
 消費税が10パーセントになる道筋はできたが、それで止まらないことは明らかだろう。また、それ以外の税も上げていかざるをえないと考えられているだろう。

 税金が高い社会は、社会階層の流動性が落ちる社会だと思う。階層が、現在よりも固定化すると思う。その理由は、手元のに残ったお金から、税金として出さなければならないお金が大きくなれば、成長に向けた投資ができなくなるのだから、現有の設備で回していこうとなるからだ。

 家は、新しく作るのではなく、今ある家をリフォームして使おうということになる。
 収益性のある資産を持つのにハードルが高くなる。
 逆に、収益性のある資産からの収益は、汗水たらして得たものでないならば、払う税金は増えるけれども、残りは投資に回していくことができるだろう。
(もちろん、ここで述べることは、税金の設定の仕方で、いくらでも変ってくるから、大雑把なものだ。)

 したがって、今の自分の階層を乗り越えていこうという野心を持っている人ならば、増税の前が、資産を拡大する最後のチャンスだと思う。もちろん、増税後も成長はできるから、悲観する必要はないと思うが、成長は今よりも大変になるということだ。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年10月30日 | Permalink

方丈記(鴨長明)

 方丈記の終わりは、概要、次のとおりだ。
 自分は、執心するなという仏の教えに従い、人里離れた山の中でがんばってきたけれども、静かな明け方に自問してみるに、心は、欲にまみれたままだ。インドの高僧もささやかな庵で修行したが、自分はその跡を汚している。これは報いなのか、心が迷いすぎて狂ったのか。このように自問したが心は答えない。念仏を2、3遍唱えて終わった。

 この終わり方はあいまいで、物足りないと感じる人もあるかもしれないが、生身の人間らしくておもしろいというとらえ方ができるだろう。

 人里離れた山の中でがんばってきたこと自体が、執心するなという仏の教えに反するということに気づき、自らをも無常にシフトしたというとらえ方もあるようだ。無常を、単にはかないものととらえるのではなく、積極的に「無常力」という力のあるものとしてとらえるようだ。

 私は、宗教的な教えもあるけれども、現世に生きる人として生きていこうというメッセージだと思う。このような現実主義は、日本人に昔から受け入れられてきたのではないかと思う。
また、次の世代の人に、どのように自分の考えたこと・行なったことを伝えるかに関しても、考えさせてくれると思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年10月25日 | Permalink

本を持っていることに意味があるか?

 一通り読んだ本でも、改めて、あるポイントを決めて拾い読みをしてみると、ほとんど読んだ記憶がないということが多い。読んだ本は、知層(地層)になると言われても、実感できるかどうか心もとない。
 したがって、本を持っていても、何がどこにあるか不明のことが多い。最近では、本は売却して、スペースを取られないようにした方が良いという考え方もあるだろうと思う。
 しかし、弁護士として、普通の人よりは、本を抱えている自分の立場から言うと、本は本として持っていることの意味はあると考えている。
 本は、1つのアイコン(記号)のようなもので、中身はほとんど忘れてしまっていても、何かしら残っているものがある。本を書棚で並べ変えてみたり、グループ化してみたりすると、何か気がつくこともある。偶然でも開いて読んでみると、現在に関係することもある。自分の運を信じて、本を開いてみることは、発想の転換になることもある。
 自分の亡き後、本を残されても、遺族は迷惑かも知れないが、気になったところに付箋とメモをつけているので(決して多くはない)、のぞき見してもらっても良いかと思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年10月17日 | Permalink

Artfacts.Netの、2012年ランキングを見てみると

 Artfacts.Netは、世界各地の美術館やギャラリーでの展覧会で、そのアーティストがどれだけ取り上げられているかを基準としたランキング。
欧米から見たランキングであり、日本にいる立場から見た感覚とは、かなり違ったものであり、おもしろい。
 アーティストは、世界基準でランク付けされるということでもあり、厳しいものを感じる。
 5000番以内に入っている日本人アーティストは、71名。1.4パーセント強にすぎない。
 アーティストの世界は、世界基準で見ることもできるが、国ごとに独自の評価があるのだろうとも思う。しかし、日本人アーティストは、もっと取り上げれても良いように思う。
 ランキング上位の日本人アーティスト71名について、それぞれ調べていくと、教育を受けた大学、これまでの滞在地、現在の居住地・拠点について、日本を越えていることがはっきりする。そもそも世界的に評価される人は、日本を出て、主として欧米であるが、世界的に活動していると言えるだろう。
 また、具体美術協会の人が、5名含まれていることも気がつく。日本のアンフォルメルとして、海外で評価されたことが、1つのきっかけになっているように思う。もちろん、具体美術協会のアーティストの独自性もあるだろうが、ミシェル・タピエなどから賛辞が送られたことが、欧米の眼に触れるきっかけとなったように思う。
 さらに、フルクサスとの関連があるアーティストが、4名いる。
 こうした結果は、現実として、それぞれのアーティストは、受けとめる必要があるのではないかと考える。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年10月12日 | Permalink

会社関係、人間関係、近隣関係での付き合い方

 国家間の外交のあり方に関し、情緒的な関係は、時に危険であることから、それを避けるために高坂正尭教授は2つの態度の大切さを伝えようとしていたと言う指摘がある(「不思議の日米関係史」あとがきに代えて)。
 第1は、国際関係は、時に冷酷になるけれども、大体は冷徹に運営していけばよいので、深くつき合わず、それでいてお互いの立場や考えが通じればよしとするのが基本であろう。
 第2は、歴史を現実から突き放し、今は昔のお話ととらえた上で、そこに表れた人間模様をエピソードとして楽しむ、というやり方である。

 私は、弁護士として、国際関係についてコメントする立場になく、むしろ、大きな問題に踏み込むのではなく、現実の自分の前にある問題に取り組もうと考えている。
 この2つの態度も、現実の自分の前にある問題に取り組むときに参考になると考えるので、書き留めた次第。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年10月05日 | Permalink

なぜ外国の人形はかわいくないのか?

 日本では、「お人形のようだ」という言葉は、かわいいという意味で使われる。ところが、欧米の人形は、顔は月並みで無表情、服装も普段着というものが多い。このような指摘は、新聞でもなされたことがあり、気がつく人も多いだろう。
 この点に関して、欧米では、人形は、共に泣き、喜ぶ、自分の分身であり、そのために人形の顔は、時には笑って見え、時には泣いて見える無表情がよく、服も普段着が良い。これに対して、日本では、願望を自分に代わって実現してくれる憧れの対象であり、そのために人形の顔は、笑みをたたえ、足が長く、お出かけ着となる。
 このような違いから、子供の教育への影響を考える展開がなされるが、ここでは取り上げない。
 私は、日本と欧米の違いとして固定化する必要はないと思うが、この2つの見方は、アートに対するとらえ方の違いとして表われているように思う。
 アートは、「絵になる」風景・対象を、技量をあますところなく示して、美しくとらえることなのか、何らかの追体験を通じて自分・他人・環境に気付くことなのか、という問題意識である。どちらが優れているうんぬんを議論するためではなく、割り切ると2つの見方ができるということである。
 現代美術は、この観点から考えてみても良いと思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年10月02日 | Permalink