ファミリービジネスというと日本のものではないような、イメージがあるけれど。

 弁護士をしていて感ずるのは、人生を成分分析すると、大きくとらえれば、「ファミリー」と「ビジネス」だということだ。「家族」と「企業」と言っても良い。
 ただし、成分は、2つだとしても、ファミリー(家族)とビジネス(企業)は、簡単に分けられるものではない。
ファミリー(家族)は、時間の経過とともに変化するが、一続きのものであり、自由に・ランダムに、どこへでも行けるものではない。ビジネス(企業)も、やはり一続きのものであり、程度の差はあるだろうが、自由に・ランダムに、どこへでも行けるものではない。
 このような2つのものが絡み合うので、単純な成分分析はできないだろう。私も、まだ理解仕切れていない分野もあり、まして対応策がすぐに見つかるものでもないことが多いだろう。しかし、年齢が進むにつれ、多少なりとも経験を積み、実感としてつかんだ知見もある。自分として、これまでのものを統合したいと考えるようになった。
 このブログでは、ある程度体系的に書き出してみるつもりでいる。「家族人事政策」という面(このような言葉が適当かどうか悩むところだが)が強いかもしれないが、どうぞご覧ください。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年06月05日 | Permalink

現代美術は、なぜマイナーか?

現代美術は、少なくとも日本では、マイナーだといっていいだろう。
現代美術は、楽しめないところがあるのが原因だ。逆に、楽しめる現代美術は、人気がある。
多数の人が楽しめる美術は、おもしろくない人も多いだろうが、少数だろう。

多数の人が見る作品とは、第1群としては、日本では、ある程度、評価された作品だろう。
いわゆる有名な作品は、有名ということで、多くの人が見る価値があると考えるため、列ができる。

多数の人が見る作品の第2群としては、ぱっと見、分かり易く、きれいであったり、技巧が超人的であったりするものだろう。かわいらしく、また同時に、気持ち悪い(かわきもい)など、そのときどきの流行もあるだろう。

現代美術は、多くの人よりもさらに進んだ先をを提示するべく、格闘したものであると思う。マイナーであることを恥としない。
しかし、それが本当に先を進んだものであるかどうかは、わからない。多くは、泡のように消える。それで生活ができればよいが、そうでない場合、どうするか深刻な問題となる。
このため、多数の人が見る作品の第2群に擦り寄ることを考える人も出てくる。(第1群は、結果であり、いきなりそこに至ることはできない。)
私は、そうすることを否定しない。確かに、真に分かる人からは、見破られるだろう。しかし、多数の支持があれば強い。
現代美術の作家は、真に先に進んだところと、多数の気付きとの間で、身を削ることになる。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年05月22日 | Permalink

後継者を見ていて、いろいろ感ずるところがある。

あまりに猪突猛進でも不安になるが、自分に比べて消極的なのも不安になる。
自分は、弁護士として、ある程度リスクをとって仕事をしてきた。助けになるものは全て使って、すこし背伸びをしながら進んできたと思う。
後継者も、自分と同じようにリスクをとって、仕事を拡げて欲しいと思うが、自分と同じようにはできないことの方が多いのが、世の常だろう。
後継者が消極的に映るのは、経験不足が原因だろうと思う。経験を積んだ人間と同じようには考えられないだろう。したがって、経験を積ませることは、どこの仕事場でも必要だ。経験を積むことで、発想が広がることは多いだろう。この点に注意して、仕事をしたいと考えている。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年05月18日 | Permalink

ジェニファー・バートレット

In the Garden♯190(2枚の同じ構図がセットされているもの)を見ていたとき、箱型に区切られた物が、塀か何かだと思っていた。
ところが、In the Gardenの画集を見てみると、それはプールだった。
このようなことは、作品を見る場合、よくあることだろう。誤解・逸脱といったことが生じるのである。
しかし、このことが悪いとは思わない。誤解・逸脱であっても、そこから展開が生じる。それによって、新しい世界が始まるだろう。

ジェニファー・バートレットを初めて知ったのは、直島で、「黄色と黒のボート」を見たときである。
この作品は、波寄せ際を、角度、時間(季節)をずらして描いたものに、立体の黄色と黒のボートが置かれ、振り返って、窓の外には実際の波寄せ際があり、そこにも黄色と黒のボートが置かれたものである。
1枚の絵に、見る角度を違えて同じもの・場所を同居させる手法は、セザンヌやキュビスムにあるが、立体も加えて、見る人にも振り返ってもらって、表現するのは、新鮮だった。

In the Garden♯190も、時間をずらした2枚がセットされており、同じような手法が見られる。このような何枚かのものを、同時に1つのものとして認識することに努めると、4次元の存在を感ずることができる。
In the Gardenの画集にある全ての作品を、同時に1つのものとして認識することは、1つの場所であっても、非常な広がり・一体性を感ずることになる。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年05月18日 | Permalink

自分はどのような印象をもたれているか。

 小学校6年生のときの授業だったと思うが(私の通っていた小学校は、何か特定の教科ではない授業があった)、少人数グループに分かれ、それぞれの人について他の人がどのように見ているかを率直に書き出して互いに読み、話し合うという機会があった。(この授業では、おそらくいろいろな注意や配慮がなされていたと思うが、細かい所は忘れてしまった。)
 私にとって、これまでの人生で最大の衝撃だった。
 他人が自分を見る眼があり、それは自分が自分を見る眼とは大きく異なるということをわからせてくれた。
 授業のやり方によっては、とんでもない結果へと発展してしまうことも大いにありうるが、私にとっては、ショックではあったが、それをなんとか受け止めることができた。
 本当に貴重な体験であり、自分の一人よがりに気付き、また、友情というものも強く感じた。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年05月10日 | Permalink

アーティストは、物としての作品を作ることは、自分の一面にすぎない。

 アーティストは、人間の広さを意識する必要がある。
 人間の活動は、ビジネスの世界を見れば分かるように、色々な仕事が集まって全体を作る。仕事は、分類はできるだろうが、人それぞれだ。職人であったり、組織作りの事業家であったり、お金の使い方を考える投資家であったりする。
 アーティストも、1つの職業と考えるのではなく、人間の一面だととらえるべきだ。そうすると、物としての作品を作ることだけが、道ではないと気がつく。
 アーティストは、現在を生きる人間であり、世の中との関係で、常に緊張感が生ずるだろう。自分が生きる現在を、自分なりにとらえなければ、何も気がつかず、新しい変化もわからないだろう。
 アーティストは、職人として物を作るだけでなく、哲学者としても行動し、事業家としても活動し、世の中を作るべきだと思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年05月08日 | Permalink

収益不動産の管理ですら間違えると一族の崩壊につながる。

 収益不動産は、一族に「不労所得」をもたらす点で大事である。その管理を間違えなければ、一族が豊かに生活できる。
 収益不動産の管理ぐらいさほど難しくはないと考える人もあるだろう。事業会社に比べれば、判断を間違えることは少ないだろう。無理な投資をしなければ、収益不動産は、安定していると思われる。
 しかし、収益不動産を持つものが会社であると、その会社の運営でもめることはありうる。トップに立つものが、一族全体を考える能力、性格を持つならば、公平性のある分配ができる。一族全体が豊かに、明るく生活できるだろう。ところが、会社運営の支配権を握ると、自分のことだけしか考えない輩は、いくらでもいる。
 収益不動産の帝国を築いた人は、会社運営で行くのか、信託制度を利用するのか、考えなければならないだろう。人を得るならば、会社運営でよいだろうが、より慎重に考えるならば、信託制度を利用するべきだと思う。創設者として、記憶にとどめてもらうためには、仕組みを考えなければならない。
 信託制度の運用は、まだまだ費用が高く、世の中に十分行き渡っていない。この点は、弁護士として、改善されなければならないだろうと思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年04月19日 | Permalink

在宅での死

 健康に問題が生じた場合、入院する。そこで不治の病であることが分かった場合、少しでも生き長らえる設備が必要であるから、最後まで病院にいるのが良いと考えていた。弁護士の立場としても、そのような形を見てきたと思う。
 しかし、「在宅」とは、自分の死に際ぐらい自由でありたいと願う人にとって、その思いを実現する手段なのである(文芸春秋スペシャル2011春号77頁)という考え方に接し、最後は自宅に戻るという選択肢も十分にあると思うに至った。
 たしかに病院では、延命のための設備はあるが、家族が泊り込むことは大変なことであるし、自分の好きなものが自由に置けるものでもない。
 しかし、家族の立場から言うと、少しでも長く生きて欲しいと思うから、最後は病院でと考えてしまうだろう。自分の死に際の自由を実現するためには、自分が元気なうちに、その意思を伝えておく必要がある。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年04月13日 | Permalink

本は、ファミリーの共通の財産である。

 親の立場として、自分の子が、どのような本を読んでいるかは、関心がある。読んでいる本を見れば、子の成長をはっきりと知ることができる。
 これに対して、子の立場からすると、親に、どんな本を読んでいるかを、知られたくはないだろう。
 しかし、親として、自分が持っている本を、子が読もうとするならば、大いに結構であるとして、解放するし、その逆も、大いにありなのだという、コンセンサスができることは、ファミリーにとって大事なことだと思う。
 本には、いろいろな書き込みをするだろうし、付箋もつける。この記録は、世代を超えて貴重だ。
 これは、親子で酒を飲みながら話をすることに匹敵すると思う。
 弁護士の立場からは、その人が、どのような本を持っているかは、注意している。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年04月03日 | Permalink

読書

 どのような本を読むかは、自分の年齢と共に変化している。
 学生時代は、学校で使う教科書(基本書)を読む必要があったが、同時に小説も読んだ。
 ところが社会に出て仕事をするようになると、仕事上必要な本以外に、経済書を読むようになり、小説(フィクション)は少なくなった。
 そのうちに歴史に関する本に興味が出てきた。いつも自分を誰かの立場に置いて読む。
 読む本に変化を生ずるのは、誰かの影響である。身近な人からの勧めもあるし、何かの本やネット上での紹介の場合もある。興味を限定せず、素直に読み始めてみると意外な展開があるものだと思う。
 経験を積むにつれ、著者と自分との比較ができるようになると、おもしろいと思うようになる。
 50歳を越えて、読むことに疲れを感ずるようになると、読む本を選択するようになり、また、全てを読むこともしなくなった。本の内容が予想できるようにもなる。
 最近感ずるのは、本は何かの実行に結びつけなければ意味はないと思うようになったことだろう。読むことが目的ではなく、読んで気付き、実行し、自分が成長することが目的だと思う。
 弁護士の立場からは、実行に結びつけている人が、成果を出していると思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2012年03月26日 | Permalink