「ボス(親)が理解しない。」と言うなかれ。
ボスが理解しないのを嘆くことは勝手だが、ボスを責めることは意味がない。ボスが理解できるように説明できなかったことを重視し、それを反省するべきだ。
他人(ボス)を責めても、良い結果が出なければ自分の中に不満が残るだけだ。良い結果に結びつくためには、自分に何ができるかを考え、実行するべきだ。
弁護士として仕事をしていて、このことを痛感する。
ボスが理解しないのを嘆くことは勝手だが、ボスを責めることは意味がない。ボスが理解できるように説明できなかったことを重視し、それを反省するべきだ。
他人(ボス)を責めても、良い結果が出なければ自分の中に不満が残るだけだ。良い結果に結びつくためには、自分に何ができるかを考え、実行するべきだ。
弁護士として仕事をしていて、このことを痛感する。
多くの人に評価される人は、結局のところ、与える人だ。
敬意を表され、大事にされる人を見ていると、与える人であり、ビジネスの面で力を得た人も、与えてきた人だ。
与えるにあたっては、何らかの見返りを期待することはあるだろうが、まず自分のできる範囲のことで、人に与えることが先だろう。自分が容易にできることならば、与えることは苦にならないだろう。
与えることが積み重なり、また広がる社会が想定されて良いだろう。
私個人としては、社会という大きなものを先に考えるべきではなく、自分とのかかわりの中で身近なところから考えていけば良いと考えている。弁護士であれ、同じことだと思う。個人が与える人となることで、社会は違った見え方をするだろう。
2012年1月28日、森アーツセンターギャラリーで歌川国芳展を見てきたが、想像をはるかに超えるにぎわいだった。
皆の列に並んで順番に1つずつ見ていくことは、時間的にも忍耐の点でも、とてもできなかった。絵の前が空くと、さっと近づき見るものの、大体は人の列越しに見るしかなかった。細かいところは図録で見るしかなかった。
テレビで紹介されたと聞いたので、その影響があるにしても、これだけの人が見に集まるというのはすごいことだと思う。
大胆な構図、ユーモア、躍動感などが強く感じられる点であり、わかりやすいと感ずるのだろう。抽象表現主義がコンセプチュアル・アートまで突き進んだ流れとは異なり、あまりむつかしく考えないで素直に楽しむというところが、現世的なのだろう。
1つの石で1羽の鳥を得ることも大事だが、自分の能力を更に向上させたいと考えるならば、1つの石で2羽、3羽を得ることも考えていかなければならない。
一石二鳥というと、そのイメージは単発的な活動となってしまうが、本来は、1つの行動によって多方面への良い影響が及ぶような継続的な活動をイメージするべきだろう。
塩野七生「ローマ人の物語」のカエサルの巻でも紹介されていたが、いくつかのねらいを同時に実現することは、年齢と共に必要だろう。
子が自分の仕事を見つけ、精励するにつれ、親は、相手にされなくなる。子が自分の世帯をもつと、なおさらである。
小津安二郎の「東京物語」でも、尾道に住む老夫婦が東京へ旅行に来たとき、長男・長女からほったらかしにされたのも同様だろう。
子が正月に来て、また帰っていくのは正直さみしい気がする。
しかし、だからと言って、子をいつまでも自分の思いどおりにすることはできないことはわかっているし、むしろ子の成長だと思う。孫ができると変わってくるかもしれないが、それまでは、ちょっとしたエアポケットのような状態だと思う。気持ちの点で、準備が必要であると思う。
人生設計より広げて、一族設計をしてみようとする立場からは、事業はどのようにとらえることになるだろうか。
事業を継続するためには、いろいろな能力が求められる。このため、能力のあるトップを選ばないと、事業は破綻してしまう。
ただし、事業の内容によって、求められる専門技術は異なるし、外部からの補充が可能な場合もある。したがって、自分の事業の存続のために必要な人材を常に意識し、一族の中で探す必要があるだろう。
この点は、事業の発展を考えるのと同時に考えられるべき問題だと思うが、自分の命・健康に何らかの変化を感じないと準備が始められないように思われる。
自分の亡き後まで考えても仕方がないと考える人もいるかもしれないが、弁護士をしていると、考えておく必要があると思う。また、自分の家族状況の変化に応じて考えてみると、また違った発想となると思う。
この本が出版されて、すぐに読んだ記憶なので、2000年秋口頃だと思われる。まだ、この本がそれほど評判になっていないときだった。そのとき、こう言っては自慢めいて聞こえるかもしれないが、「なんだこれは!自分(私)が考えて実行していることをそのまま本にしているじゃないか!」と感じた。弁護士として、また、不動産の扱いに関与するにつけ、経験として感ずるところだ。
本として、おもしろく読めるようにまとめられており、まとめ方の工夫はあると思われたが、内容は全編自分の考え・実行そのままだった。
後に、この本が大変なベストセラーになるにつれ、自分の考えや実行していることを読みやすくまとめればベストセラーにもなるのだとすら思ったものだ。
ただし、著者であるロバート・キヨサキが、シリーズ本として何冊も出すに至り、この点では自分と大いに異なると思った。
上記のような特集や本を目にする。「なぜ文人は温泉に惹かれるのか」というような論考もある。
しかし、温泉は、文人にだけ愛されたものではなく、多くの人に愛されている。
文人が、多くの人と異なるのは、小説などで取り上げ、記録に残した点である。記録に残されたことにより、後の多くの人が、文人の経験や意見を知ることができるため、文人が温泉を愛したとなるにすぎない。
温泉を愛した人は多いと思われるが、記録に残っていないと、その事実も残らないということである。
記録の意味を改めて感ずるところである。
「投資は良いが投機は良くない。」とか、「投機だから悪いのではない。」とか、いろいろ言われるが、言葉のイメージで議論しても意味はないだろう。弁護士として、具体的に考える場面に遭遇すると、そう思う。
投資と投機を明確に区分する基準は、むつかしいと思う。それは、投資・投機の対象だけでなく、その主体の状況にもよるからである。
投資か投機かは、各人について、個別に判断するしかない問題である。
弁護士として、いろいろな企業が開催する大会に出る機会が多い。
人の気持ちを1つにまとめ、企業として力を発揮することは、経営者として最重要な課題だと思われる。
そのための1つの方策をして「総決起大会」といえるような会を開くことがある。いわゆる体育会系の仕組みであり、それが苦手と感じる人も、その手法を学ぶ必要があると思う。