A14 大津英敏(1943ー )
「東京大学」、「赤門」は、辻井喬著「終わりからの旅」の挿画となったエスキースである。
私が東京大学を卒業していることから、名古屋画廊の中山真一君が紹介してくれたことが、購入のきっかけである。
「東京大学」、「赤門」は、辻井喬著「終わりからの旅」の挿画となったエスキースである。
私が東京大学を卒業していることから、名古屋画廊の中山真一君が紹介してくれたことが、購入のきっかけである。
1 リヒターは、1962年から1992年までのノートを開示している。また、インタビューと対談もある(「写真論/絵画論」)。
これにより、リヒターの考え方をある程度体系化することは可能である。
リヒターの絵画は、それを見ているだけでは、全てを理解することはできない。リヒターは、「仕事の本質的な部分は、本来の制作以前の調査とプランニング」にあることを当然のこととしている(同書55頁)。作家が調査とプランニングをするように、見る側もその作品から調査と展開をする必要がある。そのためには、作家は、何らかのきっかけを提供をする必要があると思われる。リヒターが評価されるのは、それがあったからだと思われる。
2 リヒターの体系「写真/絵画論」に基づく
(1) 絵画とは
「絵画とは、目にみえず理解できないようなものをつくりだすことである。」(99頁)
(2) 描くべきもの
「ほんとうに描くべきものの範囲がどんどん狭まり、明確になっていったのです。」(55頁)この意味は、描くべきものをまず明確にするべきということである。
「人は本来、私が描いているようには描けないものだ。というのも、そこには本質的な前提、つまり、なにを描くべきかという確信、『テーマ』がないのだから。」(108頁)も同様の趣旨である。
(3) 動機
「私にはモティーフはなく、動機(モティヴェーション)だけがある。」(106頁)
ただし、「連作にとって私の動機は重要ではありません。」(120頁)の記述もある。
(4) 伝達
「『伝達』つまり内容。画家がなにかを『伝達』したり、イラストにしたりするときは(ほとんど)いつも、自分の愚鈍をさらし、彼らの伝達はつねに情けないほど退屈で、虚偽に満ちていいかげんで、惨めったらしく攻撃的である」(112頁)
「そもそも絵を描くという行為、芸術一般へと人をかりたてるものは、まず伝達したいという欲求であり、ものの見方を確定しようという努力であり、名称をあたえ意味づける必要のある、みなれぬ現象の克服である。」(134頁)
(5) なにを、いかに
「なにを描くべきか、いかに描くべきか?この『なに』がもっとも難しい。それが本来のことだからだ。『いかに』は比較的やさしい。」(113頁)
(6) 仕事の本質的部分
Q「あなたの仕事の本質的な部分は、本来の制作以前の調査とプランニングにあったのですね。」A「その部分は大変重要ですが、べつに目新しいことではありません。昔の画家もそういうことをしていました。何度も風景をみにでかけていっては、何千という印象のなかから、ゆるぎのない決定的印象を選びだしたわけです。」(55頁)
「(事件の経過に関し)知識を得て、人物を知ることが、いわば作品の基盤だったのです。」(61頁)
cf.杉本博司
(7) 方法としての偶然
「今ではたえず偶然をとりいれている(だがオートマティスムではない)。偶然は私の構想や思いつきを破壊し、新しい状況を生んでくれる(いつもながら、ポルケも嬉しいことに似たようなことをしている)。・・・・・偶然を利用すること、それは自然を描きうつすようなものだ・・・・・しかし無数の可能性のうちのどの偶然を?」(107頁) ←cf.陶芸
「方法としての偶然」(122頁)
(8) 写真を描きうつすことの意味
「写真を描きうつすことによって、主題選びや主題の構成から解放された。」(114頁)
「なにがすばらしかったかわかるだろうか?絵はがきをたんに描きうつすというような、ばからしくくだらないことによって、一枚の絵画を生みだせるとわかったこと。そして自分でおもしろいと思うものが描ける自由さ。鹿、飛行機、王様、女性秘書。なにもつくりださなくていいこと、絵画という名で人が理解するすべてを忘れること。つまり、色、コンポジション、空間性など、とっくに考えられ知られていたことのすべてを忘れる。突如、それらが芸術にとってもはや前提とはならなくなった。」(94頁)
(9) 自然との関係
「芸術が自然を模倣するというのは救いようのない誤解である。なぜなら、いつでも芸術は自然に逆らい、理性のために創造してきたのだから。」(134頁)
「ほんとうは、自然はどのような姿であろうとつねに我々と対立している。自然には意味も恩寵も同情もないから、自然はなにも知らず、我々とは反対に精神性や人間性をまったくもたないからである。」(110頁)
「殺しを我々の自然(本性)の一部とみなすことが重要かもしれない。非人間的で、自然災害や肉食獣や爆発する恒星のように、野蛮で猛烈で「盲目の」自然。人間はそこまで盲目でも野蛮でもないと我々は思いたがっている、そんな自然の一部として。」(127頁)
(10) 芸術をとりまく環境
「描写の手段(技)、つまりスタイル、技法、描写の対象は、芸術をとりまく環境である。それはちょうど、アーティストの特性(生き方、能力、生活条件など)が芸術をとりまく環境であるのと同じである。」(134頁)
「技法は、私の意図や影響のおよぶ外にある。」(94頁)
(11) グループ
「同じ考えの画家との交流・・・・・・グループが、私にとって非常に重要だ。一人ではなにごともうまくいかない。ときに我々は話し合いながら考えを発展させた。」(92頁)
3 リヒターのコメント(「写真/絵画論」に基づく)
ミニマル 101頁
マティス 101頁
グレン・グールド 105頁
バゼリッツ 106、125頁
キーファー 107頁
ボイス 110頁
シェーンベルク 112頁
ハインツ・フリードリヒ 113頁
アンディ・ウォーホル 122頁
卓上に置かれたプルーン、洋梨、ボトル、ポット、マンドリン、フルート、ドリルなどの組み合わせの絵は、すぐに笠井の絵とわかる。
「笠井さんにとっては絵は一つのコンストラクション(構成物)であり、物の形と色のぶつかり合い、響き合いが自ずと作りだす緊張と均衡とが生みだす一つの小宇宙の創造が目的」とされる(遠藤恒雄)。
具象画であっても、対象物自体やその組み合わせから出てくる構成、リズムと言ったものを表現しようとされているのだと思う。
笠井が受けられた教育、フランス留学、教員としての生活、作家としてのスタートなどを読むと、私にとって現代美術の作家なのだと思う。
現代美術というと、難解であったり、従前と異なる表現に走ったりして、私自身、特殊な世界という感覚を持っていた。しかし、現代美術の作家の言葉を読むにつれ、また、一連の作品を見るにつれ、私は、現代美術の作品がもつ感覚を受け入れるようになったと思う。
すると、現代美術的でない作品が、古く思えることも生じてくる。しかし、同時代の作品は、現代美術として存在していることに変わりはない。
詳細な美術史としての流れを、私は理解しているとはいえない。しかし、一見オーソドックスととらえられる作品と「現代美術的」ととらえられる作品とに壁を作ることなく、連続線上にあるものと理解しても良いと考えている。
1 草間彌生と花
草間彌生の作品には、同じ形の靴をモチーフとした2つの作品がある。
1978年の「花を踏みしだく」
1979年の「靴をはいて野にゆこう」・・・この作品は、初めての版画作品である。
「花を踏みしだく」では、踏みしだかれた花が、「靴をはいて野にゆこう」では、靴ひもとなって表現されている。(この花がどんな花なのか、私には十分な知識がない。)
2つの絵には関連があるのは明らかであるが、1978年から1979年へと何らの変化があったのか、そもそも1978年の作品に、踏みしだかれた花が靴にまとわりつき、靴ひもとなることが暗示されているのか、思いは尽きないところがある。
1964年に、ニューヨーク、カステラーニ画廊の個展で出品されたインスタレーションとして、「ドライヴィング・イメージ・ショー」がある。
その内容は、「電話のところにテーブルクロスがあって、それにスミレの模様が付いていました。その周囲に電話ボックスがあって、そのスミレの模様が天井や壁面までずっと広がっていく作品がありました。」とある(ハピネス ― アートに見る幸福への鍵カタログ241頁)。
草間彌生には、1998年に小説「すみれ強迫」が発表されており、花との普通でないかかわりが一貫してあることがわかる。
2 草間彌生の自己主張
草間彌生の自伝やインタビューを読むと、自己礼賛の面が強く、辟易する人が多いだろう。
しかし、1人の作家として、精神的な病をかかえながら、その存在を主張してきた歴史を見るとき、やむをえないものと考える。
版画作品の中に、製作年が「1953-1984」とあるものがある。実際の製作は、1984年であるが、この起源は1953年からであるという作家の自己主張なのだと思われる。
今日、草間のモチーフである水玉模様(ドット)は、携帯電話のデザインで利用されたりして、広く受け入れられているように感ずるが、そこまで来る道のりは大変なものであったといえる。
3 草間彌生に女性の自立を見るか?
ハイヒールは、女性の自立を表現していると聞いたことがある。
1 「サーカスNO171 チェロ弾き」は、ベルナール・ビュフェ美術館の図録にとりあげられている。
ビュフェが40歳(1968年)のときの制作である。ビュフェは、71歳(1999年)で自らの命を絶っている。
ビュフェは、アナベルと夫婦として、また、「Significant Others(重要な他者)」として共に生きたと言う。
2 「ビュフェとアナベル」
この本は、ビュフェの作品、写真、2人の言葉、若干の説明文によってできた2人の物語である。
説明文は極力省かれており、無声映画のように流れていく。
何を感じ、何を考えるかは読み手に委ねられており、答えが1つあるものでもない。ごく短い時間で2人の物語を読むこともできるし、1つの作品、写真に没入することもできる。
このような本は、私の知る限り稀である。作品と写真と言葉があると多くのことを表現しすぎてしまう。2人の生活は決して空想の中の物語ではなく、現実であって、単純化できるものではないが、その表現は静かである。
コペンハーゲン、ブリュッセル、アムステルダムの出身者で作られたコブラと称するグループは、当時の美術の主要な拠点であったパリ、ニューヨークと距離を置く立場であったと言われる。このような少数派としての自覚と、それでいてグループとしての主張は、美術の世界では、よく見られることだろうと思う。
カレル・アペルは、抽象化する中でも具体の姿をどこか維持しており、それは、具体的なモチーフからの率直な本質表現なのだと思う。
1950年代末のアメリカ美術であるポップ・アート、ミニマル・アート、コンセプチュアル・アート、フランスのヌーヴォー・レアリスムとは別の道を行く。
画家には、プリミティブな力が必要と考える。
「ボナールは、水浴する女を描きます。しかし描く際に、彼は色彩の抽象、すべての色が運動する抽象的な空間を発見するのです。彼は自分の写実的な見方の先へと抜けるのです。その絵は水浴する女であって、そうではない。抽象ではなく、しかしまた抽象でもあるのです。
私(カレル・アペル)の絵も最後にはよくそうした「中間的」な状態になります。」(アペル展16頁)
アペルが描きたかったのは、まさしく感情であった。
アペルは、人生は永遠に続くものではなく、知的な知識はおそろしく限られている、という認識から出発したとする。どういう場合でも、幸福や悲しみを経験し、それを知ることが、自分の作品に違った内容を与えてきたとする(アペル展17頁)。
知識の限界をふまえ、経験の力を認める考え方は、現世的であると思われる。
1978年から79年に、アペルは絵の構造を再検討した。
<顔―風景>---------------- 病気 -------------- 統制のとれたぶっきらぼうな筆づかいによる絵が現れた。
(P.93)
再び始めたとき、アペルは、構造を求め、厳しく引き締まった筆づかいの抽象的なリズムを求めた。
しかし、その抽象的なリズムから、なおかついつものように、静物、頭部、動物、人物が現れた。
ロスコの絵に精神性を見つけようとする人が多いと思うが、私には、それは難しいように感ずる。もちろん精神性がないなどとは思わないが、ロスコのスタイルで、それを展開することは難しく、行きづまってしまうのではないかと思う。
ロスコは自死しているが、私はその原因を知らない。しかし、ロスコにおいて精神性の展開に行きづまったことが原因と思えてしかたがない。
私は、精神性と言うものは、変えていくことができるものでなければ、死んだも同然に思える。
1 ピカソと共に、キュビスムの創始者として位置づけられるフランスの作家であり、キュビスムの作品は、ピカソの作品なのかブラックの作品なのか、にわかに判明しがたいほど似ている。
しかし、その後の展開は異なり、共にキュビスムの作品から変化したが、ピカソが大胆にめまぐるしく展開し、名前が知れ渡っているのに対し、ブラックは、静かに自分の世界を展開したように、私はとらえている。
ブラックは、ピカソほど誰でも知っているという存在ではないが、私は、個人的にはブラックの作品の方が好きだ。
ちなみに、セルフポートレイト作品で有名な森村泰昌は、「高校生の私が影響を受けたのは、結局ピカソではなくブラックのほうでした。プラックのその後の絵は、とても上手な絵になっていったのに、ピカソは『ヘタくそ』で参考にはならなかったからです。」(「踏みはずす美術史」110頁)としながらも、最終的には、「『泣く女』が『ウマいかヘタか』と問われたら、私は躊躇なくすべてにおいて『ヘタくそ』だと答えます。しかし、『ヘタくそ』ゆえの明るさやおかしさのおかげで、この絵は『名作』たりえたとつけ加えたいとも、思います。」(同116頁)と評価している。
2 ブラックは、1910年(28歳)に鳥を描いていたと言うが、晩年が近づくにつれ、鳥をモチーフにした作品が多くなると思う。
その心境には特に興味があり、私なりにいろいろと想像している。
ルーブル美術館のアンリ2世の間の天井画として描かれたものが有名だと思うが、鳥の絵は、どの作品も不思議であり、その鳥自身とブラックの考えと自分自身とが絡み合って、どこまでも考えさせられる。鳥は自ら一人(一羽)で飛び、その空間はどこにあるのか不確定で、現実とも心象ともとらえられる。
おそらく、いろいろな解釈があり、研究されているのだと思うが、自立、孤独、隔絶、自由、一途、執着のなさ、といった矛盾する点も含めた存在を楽しめると考えている。
3 ジョルジュ・ブラックの色調
水色とグレーを基調としたブラックの作品を掛けてみると、フランスでの車
窓で見た色調と同じものを感じた。
フランスの建物は、屋根部分にグレーを用いているような印象を受けている。