C1(6) 二項対立
内部/外部、自己/他者、善/悪、男/女など、古代ギリシア以来の西洋形而上学は、二項対立を確立してきた。
その二項対立を解消し、そこに潜む欲望を指摘するものとして、1960年代半ばころ、フランスの思想家ジャック・デリダは、「脱構築」という思想を提唱した。
しかし、日本では、二項対立という考え方は決定的なものではないと思われる。
内部/外部、自己/他者、善/悪、男/女など、古代ギリシア以来の西洋形而上学は、二項対立を確立してきた。
その二項対立を解消し、そこに潜む欲望を指摘するものとして、1960年代半ばころ、フランスの思想家ジャック・デリダは、「脱構築」という思想を提唱した。
しかし、日本では、二項対立という考え方は決定的なものではないと思われる。
日本人が西欧人のように絵画を描いても、西欧人の眼からは、違和感を感ずるか、無理をしていると思われるだけだろう。したがって、日本人によって描かれた西欧人の描くような絵画は、国際性があるとはいえない。
逆に、日本人のテイストがあった方が、国際的には評価されるだろう。
美術作家は、繰り返しの中から道を見つける。
これは、美術に限らず、どの世界でも言えることだろう。
繰り返しの中で気がつく差異が、本質の把握へとつながる面がある。
また、繰り返しの中で、外部の人から作家としての理解が得られる面もある。(これは、1つの作品のみで作家を理解することは困難だという前提に立つ。1つの作品のみでも、作品としての理解はできるという考え方も当然にあるだろうが、私の関心は、作家にあるということかもしれない。)
赤塚一三の意見では、対象物・自然への取組みと、自分の中の成生物とは、かみ合わされる必要があるという意見を聞いた。そうすることにより、自然の中にある豊かな情報を生かすことができるという。
山内亮典は、雑誌などの写真を基にして油絵を描く。その理由は、現実の場面(自然)から描く(写生する)と情報量が多すぎて自分では収拾がつかないこと、収拾の努力をしているとその構図から自由に展開することが制約されてしまうこと、にあるということだった。
ゲルハルト・リヒターも写真から油彩をつくる作家であるが、リヒターが写真をほぼそのまま絵画とするのに対し、山内は、写真からの展開を行う点で異なるということだった。
描くべきものが何かはっきりつかんでいれば、後は、どのような手法によるかの問題となる。
描くべきものが何かはっきりつかんでいないと、描きながら探し、どこかでつじつま合わせをすることになる。
また、どこかからいくつかの材料を引っぱってきて、それをアレンジすると、それは描くべきものなのか手法なのかはっきりしなくなるだろう。
描くべきものをどのようにつかむかは、体感であったり、思考であったり、人それぞれであろう。したがって方式化しにくいと思われるが、材料を客観的に並べ、描くべきものをつかむ道筋を明確にするべきと思う。
ゲルハルト・リヒターの「アトラス」は、こうした道筋を明らかにするものと考える。
「なぜ、これがアートなの?」(アメリア・アレナス著)の中で、大プリニウスが書いた自然に関する本のなかではじめて紹介された、ラブ・ストーリーが示されている(189頁)。
「昔々コリントに、陶工の父をもつひとりの娘がいました。二度と再び会うことのできない男と一夜をともにした彼女は、その夜、口に出してはいえないよう衝動に駆られて、壁に映った恋人の影を線でなぞりました。翌日、娘の絶望的な思いを知った父は、その輪郭線に粘土を埋め込んだのです。こうして、はじめての彫刻がつくられました。」
アレナスは、このコリントの娘の物語を、ソフィ・カルの美術作品「盲目の人々」を例にとり、アートの本質を語るアレゴリー(寓話)として、とらえている(193頁)。
「アートにたいする私たちの反応もまた、この作品(ソフィ・カルの作品)が語るように、私たちが感じることと想像することの、そして私たちが知っていることと、知っているつもり(、、、)のこととの、気ままな組み合わせの結果だからである。それは知覚と期待、閃く直感と「美しき誤解」の絡み合った迷路。美術作品からどんな感動を得ようとも、それはこういった錯綜したプロセスから生まれるものなのだ。それはアーティストが「生」や「現実」のまわりの影をなぞって描いた微かな輪郭を、私たちが自らのイメージで埋めていく作業なのである。」
美術作品を見ることの意味を具体的にとらえていると思う。
絵合の巻を読んだとき、紫式部の時代から、互いに名画の数々を出して優劣をつけ、対戦するという遊びが行なわれていたことは、驚きであった。しかし、現代においても、富裕層がサロンにおいて、見せびらかすように絵画を見てもらうことはあるようだから、昔から変わっていないのかもしれない。
村上隆は、アートは基本的に大金持ちのためのものと断じている。これも、この伝統に基づく意見だろう。
ムニーズは、名画や歴史的出来事を身近にある素材で再現し、写真に収めた作品で広く知られる。初め立体作品を制作していたが、自身の作品を写真で記録していくうち、立体そのものではなくそれを撮影した写真を作品として発表するようになった(グローバル・ニュー・アート タグチアートコレクション♯01、283頁)。
(ゴミアート)
大塚国際美術館は、世界の名画を原寸大で陶板に複製して展示している。これにより、(1)美術書や教科書と違い、原画が持つ本来の美術的価値を真に味わうことができ、日本に居ながらにして世界の美術館が体験できる。(2)元来オリジナル作品は近年の環境汚染や地震、火災などからの退色劣化を免れないものであるが、陶板名画は約2000年以上にわたってそのままの色と姿で残るので、これからの文化財の記録保存のあり方に大いに貢献する、とする。
これは、オリジナルの意味を問うものであり、見方によっては、大胆な挑戦であるように思われる。
美術作家は、世界中どこでも、どのように収入を得て、生活するかという問題をかかえながら、作品の制作に取り組む。
その作家がブレイクして、人気作家となれば、収入の不安は解消されるだろう。しかし、そうなる前の段階では、評価を得るために、作家それぞれに苦闘すると思われる。
したがって、作家の初期、中期の作品には、このような苦闘が何らかの形で表れるのではないかと考えている。
草間彌生の「花を踏みしだく」から「靴をはいて野にゆこう」への間にも、それを見つけることができるのではないかと考えている。
草間彌生が世界的にも認められ、一般の人にも受け入れられるようになった後、部屋を一杯にする水玉の作品が生まれている。その作品は、巨大な画面一杯に展開するネットの作品に遡るのかもしれないが、精神的病いを感ぜざるをえない作品からそれが払拭されたものへと大きく展開している。
このような大きな展開の起点が、「花を踏みしだく」から「靴をはいて野にゆこう」への変化にあると考えている。