A3 疑問をもったまま進む生き方
あるものを理解すれば、それで全てがまかなわれるということはない。
現実を観察しても、本を読んでも、疑問はどこからでも出てくる。
疑問は必ず決着をつけなければならないものでもない。必要に応じて調べ、一応の解決をしながら進めば良い。
しかし、そうは言っても、それだけでは混乱しか残らないかもしれない。そこで、1つの仮説として、私なりの整理、位置づけをまとめてみようと思う。
あるものを理解すれば、それで全てがまかなわれるということはない。
現実を観察しても、本を読んでも、疑問はどこからでも出てくる。
疑問は必ず決着をつけなければならないものでもない。必要に応じて調べ、一応の解決をしながら進めば良い。
しかし、そうは言っても、それだけでは混乱しか残らないかもしれない。そこで、1つの仮説として、私なりの整理、位置づけをまとめてみようと思う。
自分は自然の摂理の中で生きていると思う。この自然の摂理こそが神だと感ずる。
ただし、神が自分の外にいると考えるのではなく、自然の一部である自分も自然の摂理が及んでいるのであって、自分の中にも神は存すると考えている。つまり、自分の内も外も神の領域だと思っている。
自然の摂理というと、自然は科学の法則に従って統一的に定められた動きをしているのだから、全ては法則通りと考えてしまう。
しかし、私は、そのようには感じていない。自然の中にも何か意図を感ずるからである。
このように感ずるに至った経緯はC3のとおりだ。
中学1年生のときだったと思うが、学校の書道の授業で漢字1字を半紙に書き、表装する課題が出た。書道の先生は、当時の学校の校長先生にあたるポジションにあり、高名な方であり、現代書道家でもあったと思う。私は自宅で何十枚も書き(ひょっとしたら百枚以上)、1枚だけ、「これは!」というものができたのでそれを学校へ持参した。
私が選らんだ字は「耐」。自分でも普通は選ばない字だと思いながら、しかし、いろいろな字を書いてみた中で、墨のボリュームが出て、それでいて勢いもあり、字画のバランスがぎりぎりのところでとれた唯一のものだった。
私は、小学校の低学年から中学年にかけて、毎週日曜日、3年程、書道塾に通っており、それなりの訓練は受けていたので「耐」は自信作だった。
学校では、少人数のグループごとに、まず1点を選び、全体で10点ほどが教室の前に掲げられた記憶である。
私の自信作も選ばれ、選べられた後、皆がいろいろと意見を言った。
ところが意外なことに、私の自信作について評価する声は皆無であり、「道」だったと記憶しているが、同級生の書いた、少し大人っぽい作品に評価が集まり、それ以外に何点か評価された作品も私のものではなかった。私は、自分の意見を言えないままとなってしまった。
先生は、自分の意見は出されないまま授業は過ぎ、最後になって、私の作品「耐」は、なかなか良い旨をコメントされた。
自慢めいたことを書くのは私の意とするところではないが、先生は、本当に淡々と私の作品についてコメントされた。この結果、授業が終わってから、同級生も、「へー、そうなんだ。」と私の作品にコメントしてくれた。
この一連の流れは、私には衝撃だった。「評価を受けるということは、こういうことだ。」と感じとった。
世の中の素直で率直な評価、自分の信念、自分のサポーターなどが織りなす、硬直そうでいて、流動的な状況を身にしみて感じた。
本を読んだり、人の話を聞いて知見を得られたならば、すぐに実行しよう。
そのためには、知見が道具として利用できるように、どこかにまとめておく必要があるかもしれない。
実行することによって、世の中の理解が深められるだろう。そこからは、仮説が浮かび上がるかもしれない。
仮説は、それだけで十分に楽しめるものであるが、仮説からは、また別の知見が得られるだろう。
人生は、このように循環するものだと思う。
本書も、自分の生活の中で考えさせられたことがどこに関連するかを確認し、そこに戻り、補充しながら成長させる必要がある。
楽しみとしての読書を否定しないが、現実の生活が重要であって、そのための読書だと考えている。
したがって、本を読むために多大な時間を費やすことは好ましくないと思う。自分の作る本もコンパクトにしたい。
私は、性格として、収集し、記録し、整理してきた。その資料を見てもらうだけでも、情報・価値観のあふれる世界を実感してもらえるだろうと思う。
まして、私の手元にある資料に限定しなければ、無限にあふれていると言っていいだろう。
これまでの社会は、あふれる情報・価値観を整理し、体系化してきたと言える。その体系すら、全てを理解し、味わうことは不可能だ。
そこでガイドブックが必要になるだろう。
資料・データを取得した場合、その場でただちに整理・保管するべきかどうかを判断して、捨てるものはすぐ捨てるという生き方を薦める本が多いように思う。確かに、整理・保管の必要がないとただちに判断できれば、それは捨てて良いだろう。
しかし、証拠書類として保管しなければいけないものも多く、組織として取り組む場合は、自分だけで決めがたい場合もある。また、その資料・データ1枚だけでは何もわからないが、ある一定期間蓄積することにより変化がわかるという場合もある。さらに、自分の興味の対象となるかもしれないと思うものも多い。
したがって、整理・保管の体系は、自分だけの理解で作るのではなく、グループ全体の理解を得て作り上げるべきだろう。また、保管期間を想定する必要もある。さらに、個人的な必要性も取り込む必要がある。
まずは、こうした整理・保管の体系を明確に作るべきだろう。保管するべき資料・データは、必ずどこかに位置づけられる必要がある。しかし、保管期間を設定し、期間を経過したものは捨てやすい区分とする必要がある。
次に、このような体系を作ってみると、思わぬスペースが必要という場合もあるだろうが、全体の量が明確になり、保管期間を決めれば、そこそこの量となることがわかる。
スペースに限界があるならば、その限界となる前に処分するルールを作れば良いだけのことだと思われる。
このように体系が安定して運営されると、落ち着いて考えることができるようになる。また、体系の修正を考えることにより、新しい分野は何かをつかむことができるようになると思われる。
1 時間の経過とともに知見・資料が出てくる場合、それを集約する場所を定める必要がある。
その場所を「マスター」を付けて明確にする。(例.マスターデータ、マスターファイルなど)
集約する場所を定めないと、蓄積ができず、成果に結びつかない危険がある。
2 集約する場所は、自由に組み替えられる場所である必要がある。
集約する場所では、知見・資料を並べ替え、全体の体系を探す作業が求められる。
この作業を行うことにより、その分野の理解が深められ、皆の利用できる体系が見つけ出されることになる。
したがって、クリアーポケット(文書を入れる袋タイプの透明ホルダー)がとじられたファイルは、資料の並び方が固定されたものに限定して利用すべきである。
3 集約の中から何か成果物を抽出する場合でも、知見・資料を集約する場所と区分し、集約の場所は継続する。
抽出物が独り歩きすると、集約の場所が分散し、二重の作業が必要となったり、一本化されない二重の成果物となってしまう危険がある。
現実に満足できるうちは、謳歌すれば良いが、満足できなくなったときに、それにどのように立ち向かうかという問題が生ずる。
「寺詣でが本来の信仰の意義を失って、ピクニックのような行楽になったのは、江戸時代からであろうが、その起源はさらに古くからあるらしい。(中略)こういう態度で寺院や僧侶に接するのは、一般に、日本人が宗教的体験を内面的実質的に求めようとせずに、形式のうえで把握するという態度から来ているように思われる。」(日本の仏教、渡辺照宏 135頁)。
しかし、私には、このような「形式主義」に理由を求めるよりも、日本人の現世志向に理由があると思える。
歴史的に浄土信仰があったとされる。平等院鳳凰堂などが、その例として示されるが、本当に来世のことに重点を置いていたとは思われない。
まして、貴族でない一般の人間にとっては、現世のほうが重要であったと思われる。
このことは、蓮如の御文章(1帖目8通、1帖目5通)からもうかがわれる。
人々が現世志向となったことにより、宗教も「現世志向」となる。