C11 人生は、死んだらそれで終わりか。

 この点に関して、「二度と再び出会うことのないこの人生を、死んだらしまいとして終えるか、死んでしまいにならぬいのちを生きるかでは、同じ人生でも雲泥の開きがあります。」との考え方がある(「御文章」、宇野行信著、49頁)。
 宇野行信の考え方は、次のとおりである(「御文章」、宇野行信著、47頁)。人間は、心の片すみで死んだらしまいと思いつつも、死んでいけぬ思いがあるとする。これに対して、蓮如上人は、死んでしまいにならぬいのちが恵まれ、この世の縁尽きぬれば、死にとうないまんまで死んで往けます、という場を生きておられるとする。自分自身が自分を見捨てても、見捨てることはできないとはたらいてくださるお方(阿弥陀さま)に出遇えたら、死にとうないまんまのこの身が、死んで往けるとする。この考え方は、理解しにくい。
 他力の考え方を表現するとこうなるのだろうが、自力か他力かの違いが、現実の今の命・生活にどのように影響するかを明確にするべきだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

C9 現世志向

 現代の多くの人間は、「浄土に生まれる」ことを中心に願っているとは思えない。そもそも浄土が本当にあるとは考えていない。死んだらそれで終わりと考えている。
 このことは、現代だけでなく、昔からであるように思われる。
 これは、浄土が本当にあるのかという点について、宗教家は明確な納得できる説明ができていないことを意味すると思われる(「浄土真宗必携」本願寺出版社86頁)。
 浄土は、来世にあるのではなく、今、現世に生まれている自分の心の中に作られる。
 輪廻の思想すら、今、現世に生きている自分の考える生命観、現象観である。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

C8 健気(けなげ)、甲斐甲斐しさ

 健気であることは、大事な性格だと思う。
・ ベートーベンの音楽は、健気に生きることを肯定する。(三枝成彰、日経新聞09/12/29)
  健気 ― 勇ましいさま、かいがいしいさま(甲斐甲斐しい)、
  甲斐甲斐しさ ― きびきびとしている、まめやか(忠実やか)、はたらきぶりの親切なさま
・ 少年伊藤博文は、困難が起こっても努力すれば必ず何とかなる、という楽天的な人生観(中略)を育成していったと思われる。(「伊藤博文」伊藤文雄P.25)
・ 空海の交渉力の裏付けとして、健気さを感ずる。
パールバック「大地」の阿蘭にも同様に感ずる。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

C7 許し

 吉田松陰は、海外渡航に失敗し、獄中の身となったが、安政2年釈放され、旧宅で謹慎したという。
 なぜ釈放されたのか、その事情には、私は詳しくない。
 吉田松陰のその後の業績を考えると、許されたことは、歴史的に大きな意味があったといえる。
 現代の世相は、責任追及のために攻撃するばかりで、許しという面が報じられることは少なくなってしまったと思う。許しを期待しにくい時代として生きていくしかないと思うが、許しについては、良く考察される必要があると思われる。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

C6 絶対受容の精神

 私は、結婚において、運命の人がいるとは考えていない。誰でもが、誰とでも、結婚生活を送ることができると思う。こう言ってしまうと、家内は怒るかもしれないが、結婚25年(銀婚式)を超えた身としては、それが実感なのだ。
 人は、結婚に向けて、運命の人を探し、多くの人の中から1人を選択したと思うのかもしれないが、その選択にどれほどの意味があるのだろう。
 もちろん、この人との結婚では先が思いやられるという人はいる。無駄な苦労を背負い込む必要はないとは思うから、除外すべき対象があることは否定しない。
 しかし、そこをクリアすれば、その先の選択はそれほどの意味はないように思える。現代の多くの人は、選択に力を注ぐあまり、前に進めておらず、そのことの方が人生にマイナスの影響がある。
 そのそも、私から見て昔の人は、結婚式を挙げるまで、結婚相手に会ったことはなかったというケースもあったと聞く。それでもちゃんと結婚生活を営んできたのである。周囲の人が、この2人ならば良いだろうと考えて引き合わせ、本人達も周囲の人を信頼したのだろう。
 「そんな結婚なんて到底無理。」と思う前に、自分の選択の力を考えてみるべきだろう。
 また、結婚した後に、現実にいろいろな場面に遭遇し、そこをどのように生活していくのか、その時々に、過し方を考えるべきだろう。
 相手に何かを求めず、自分でできることを行ない、人生を組み立てていくことを考えるべきだ。これは絶対受容の精神と言って良いもので、「それだと損をする。」と思う人が多いかもしれないが、はるかに得るものが多いと思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

C4 ルナモジュール(LM)「イーグル」

 私は、1969年7月20日、LMが月面に着陸し、アームストロング船長が月面に足を下ろしたとき、テレビの実況を見ていた。当時、13歳の誕生日を迎える少し前で、中学1年生だった。
 ほどなくプラモデルのLMが売られ、私は、アオシマの1/48のLMを作った。同時期、タミヤの1/70のLMも売られていたようであるが、私は大きい方が良いと判断したのか(当時、比較したかどうかの記憶はない)、アオシマのプラモデルを作っている。
 このLMは、その後、棚かどこかの上に置いていたが、大学に入学する前(はっきりした時期は不明)、落として、組み立てた部品は、ほぼ細々に壊れた。
 復元するのは大変だと思ったのか、時間がなかったのか、壊れたまま、ばらばらの状態で、せんべいか何かの、カンか紙箱かに入れて保管したと思う。
 私は、子供の頃、多くのプラモデルを作ったが、LM以降に作った物は、ほとんど記憶がない。
 多くのプラモデルは、全て残っていないが、LMのみ残した。これは愛着があったためだと思う。
 ばらばらのLMは、その後、岐阜の家のどこかに保管していたが、私が結婚し、名古屋に移ってから、どこかの時点でその存在に気がつき、名古屋に持って帰った。
 カンのふたを内側を上にして敷いて、その上にばらばらになったLMを置いていた。
 そのカンのふたは、岐阜で保管していたときのものとは別のもので、箱に入れたりせず、表にさらしたまま書斎に置いていたので、LMの部品はほこりをかぶったまま時間が過ぎた。
 長男が芸術大学を目指す頃になり、いくらなんでもLMをほこりにさらしたままにするのは気になり、透明なプラスチックケースに入れることにした。
 本当は、その少し前に、LMの部品を水につけて洗い、なんとか組み立てようとしたが、プラスチックボンドのみで自立する状態にすることは不可能に思われたので、ばらばらの状態でプラスチックケースに入れた。
 プラスチックケースに入れ、ながめていると、いろいろなことを想い起こさせ、考えさせてくれるものであることに気がついた。
 そのうち、これは私の現代美術の作品なのではないかと勝手に考えるようになった。特に、アメリカ合衆国のことをいろいろと考えさせる。
 ところが、月面着陸40年を記念して、2010年3月、新聞広告で「大人の超合金」としてアポロ11号とサターンV型ロケットが発売されることを知った。
 ただちに、2個注文して購入した(イレブン、イレブンとなるように購入したものであるが、その意味は、別に記述する)。
 私の「現代美術作品」である「イーグル」を、より考えさせる舞台装置として「大人の超合金」は、大いに意味があると感じる。
 このときになって、初めて月着陸船をインターネットで探してみると、2009年、アオシマは当時の金型で復活させており、タミヤも復活させていたことを知った。ヤフーオークションで入手できることを知り、ただちに購入した。
 この2つのプラモデルは、「イーグル」の過去のコピーということになる。「イーグル」の中のLMは40年以上の時を経て、変色しているが、壊れた時点で、未来の姿となったと見ることができるだろう。
 壊れる前の姿が、現在ということになるが、その「現在」は、未来の姿から見れば、既に過去となっている。
 大国であるアメリカ合衆国のことは、それに触れるとすれば相当量となってしまう。その栄光と変質は、世界史の中で論じられているし、今後、更に論じられるだろう。しかし、それを、ほぼ一瞬で視覚的に感じるのが「イーグル」であると思う。
 大国の繁栄と衰退というような、ありきたりの記述ではなく、ほぼ一瞬で視覚的に感ずるために、栄光の封印であり、同時に、変質の封印でもあるところを示したいと思う。時間の封印と言っても良いだろう。
 また、「イーグル」の成り立ちを理解してもらえれば、それは私の履歴でもあることを感じてもらえるだろう。
 さらに、「イーグル」からの視点に立てば、世界や私を目撃してきたと言って良く、響き合う関係にあることも感じてもらえるだろう。

アオシマ、アポロ月着陸船イーグル5号
 1/48スケール
 当時の金型で再度作られたプラモデル。
 このプラモデルは、前川弘美が1969年に作ったものと同じものである。 
 色を比べると、白さに格段の違いがある。
 このプラモデルを、誰かが作りたいと考えたとすれば、子孫の判断に任せるつもりだ。

タミヤ、アポロ宇宙船
 アポロ11号月面着陸40周年記念復刻版
 1/70スケール


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

C5 筆箱とシャープペンシル

・サンスター文具株式会社の筆箱
 象が踏んでも壊れない「アーム筆入」は、発売開始が1965年、テレビコマーシャルが1967年ということなので、私が、9歳か11歳のときということになる。発売されてすぐに買った記憶なので、小学校3年か4年のことだろうと思う。
 たしかに踏んでも壊れなかったし、コンパクトで、デザインもシンプルであったため、気に入り、今日でも使っている。途中、使わなかった期間もあったかもしれないが、捨てなかった。
 踏んでも壊れなかったが、小学校5年か6年のときだと思うが、どこまで大丈夫かと思い、飛び跳ねたときに、上ぶたの真ん中あたりに、ひびが入ったことはある。
 その後、机から落としたときに、上ぶたの一部が欠けた。衝撃には弱いと感じたものだ。
・ぺんてる株式会社のシャープペンシル、ペンテル11(イレブン)
 今から40年ほど前のものとヤフーオークション出品者が記載している。たしかに私が13歳、中学校1年のときあたりに買った記憶がある。
 途中、金具のペン刺しは、邪魔だと感じ、とってしまった記憶である。
 このシャープペンシルも今日でも使っている。
 2010/7/22まで気がつかなかったが、シャープペンシルに何か書いてあると思い、眼鏡をはずして見てみると、なんと名称が、PENTEL ELEVEN11(イレブン)である。11(イレブン)11(イレブン)に不思議な縁を感じているこの頃なので、神の計らいを感じないわけにはいかなかった。こんなことがあるとは、不思議だ。
 グーグル検索してみると、ヤフーオークションに出品されている。11(イレブン)11(イレブン)にするために、すぐに入札して、落札した。
 取寄せてみると、MADE IN JAPAN B1となっており、私が使っていたものが、MADE IN JAPAN B2なので、その違いがあるが、同じ物だった。
 ヤフーオークション出品者のコメント
「私は古い文具が好きなため地方へ回って探す事がよくあるのですが、その過程で文具店の倉庫の隅にあったものを発見したものがこの品です。
人目に触れないような所で保管されていたため数十年もの長きの間、売れたり捨てられる事なく無事だったかと思われます。」


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

C3 11:11(イレブン:イレブン)

 いつの頃からか、時計で、11:11を見ることが多いと感じるようになった。
そういえば、車のナンバーでも、11:11を見るような気がする。(・・:・1、・・:11、・1:11も広い意味では同じだと考えることにする。)
見つけるたびに、携帯のカメラで撮影した。もちろん、見つけたものの、運転中である場合は、撮影できないことが多い。2台か3台に1度撮影できるくらいかと思う。これ以外も、11:11を見つけるたびに、撮影している。意識して、時間を待って撮影するのではなく、たまたま見たときに、11:11があれば、それを撮影している。
 今日、アポロ11号の合金モデルが発売されるという広告を新聞で見た。これだけだと11のみなので、11:11になるように、2つを注文した。月面着陸船をプラモデルで作ったことがあり、今でも印象的なのだが、それはアポロ11号だったことをはっきり意識していなかった。
 ここまで来ると、11:11は、神からのメッセージだと感じる。
 誰もが、このような神からのメッセージを受けているのではないだろうか。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink

C2 神の啓示

「神の啓示」ということがよく言われる。
 しかし、多くの人にとって、それは現実の話とは思えないのかもしれない。多くの人は、その経験上、「神の啓示」といえるような劇的なことは少ないと思われるからである。
 したがって、多くの人にとって、親鸞の「夢告」の話を読んでも、それは宗教上の話としか受けとめられないだろう。
 私も「神の啓示」については、現実の話ではなく、単なる思い込みか妄想だと考えていた。しかし、私自身のある体験から、「神の啓示」というものはあるのではないかと思うに至り、そう思うに至ってから、親鸞の「夢告」の話を知るに至ったため、「夢告」が単なる作り話とは思っていない。


投稿者名 管理者 投稿日時 2011年11月30日 | Permalink