A0 基本的スタンス(考え方)
A方針
B美術を基点として
C自分を基点として
A方針
B美術を基点として
C自分を基点として
今の状況をかくかく改めれば未来がより良くなると思えると、今の状況に不満を感じ、そのままの状況を不幸と感ずるようになるだろう。
逆に、未来が今より良くなるものではなく、今そこそこに満足しているならば、幸福を感ずるのだろう。
私は、未来はより良くできると考えているし、そう考えるのが普通だと思っているが、現代は、そのように考えられない時代なのかもしれない。
むしろ、今を幸福と感じられればそれでいいのではないかという考え方もあるだろう。それが、「足るを知る」ということなのだと言う人もいるかもしれない。
しかし、未来がより良くなる、未来をより良くしていける、と考えることは必要だと思う。これは弁護士として、いろいろな人物を見ていて思うことだ。今の状況に不満を感じてでも工夫をしていこうと思う。そうしなければ未来は悪くなっていくだろう。
小学校は、40人クラスが2クラス、中学校は、40人クラスが4クラスであり、私は、9年間、そこで過ごした。
入学は、完全な抽選で決められた。
中学2年の夏頃から高校受験を意識した授業も増えたが、それまでは、本当に良い意味で実験校だと思われ、先生方も意欲的で、先進的であり、自由だった。
小学校の理科の授業では、「100ミリリットルのアルコールと100ミリリットルの水を混ぜるとどうなるか。その理由はなぜか。」というような設問について、クラスの皆でディベートが展開された。
「体重計の上で、飛び跳ねないで、『うーん』と下に力を込めたらどうなるか」という設問から、年度始めの理科の授業が始まって、ほぼ1年間をいろいろな設問、ディベートで終えたときもあった。今でこそディベートという言葉は普通になっているが、当時は、そのような言葉はほとんどなかったと思う。
中学校では、平家物語を題材にした授業が続いたこともある。平知盛が出てくる場面は記憶に残っている。
小学校、中学校の9年間の学校が、今日の自分の根本を作ったことはまちがいなく、このような機会が与えられたことは、本当に感謝している。
無人工場が話題になったことがあるが、私は、無人企業というものがありえないかと考えたことがある。その理由は、人件費は、将来も大きな支出であり、「人材」と考える部分もあるものの、人件費の抑制は常に考えなければならないと思われるからである。
企業活動をするためには人間の智恵が必要だと思うが、通常の業務については、ビジネスモデルによって、ほとんど無人とできるように思われる。
無人化を進めるためには、資産収入を得る形となっているといえるまでビジネスモデルを作り込まなければならないだろう。
一番単純な形としては、土地を貸し、地代収入を得るというものがある。この形で収入を得ている人は多いだろう。
この変形と言えるものとして、株式を持ち、企業を所有することがある。企業の経営を取締役に委任しているから無人とはいえない面もあるが、取締役の選任も含め、経営の委任を議決権多数者に委ねていれば、無人と言っても良いだろう。
こうした形以外にも、自動化を工夫する余地はいろいろとあり、ほぼ無人企業はできると思われる。
「金のなる木」は、昔から人々が求めていたものと思われ、ビジネスを無人化することは、考えていって良いと思われる。
「悪人」を録画し、テレビで見た。
感じたことの1番は、人生は、それぞれの人のものであり、画一的な論評はできないということ。
2番は、人生は、それぞれの人のものであるが、社会は、ルールを設定し、そのルールの中で動くということ。
誰が悪人かという議論は、当然予想されるところだと思うが、議論を道徳のレベルまで広げたり、因果関係をしぼらないと、悪人は多く出てくることになり、その比較は興味深いものだろう。
しかし、私としては、人生は、それぞれの人が自分の人生として受けとめるものであり、自分で進むものであって、簡単に論評できないという気持ちになった。
テレビ局などマスコミの取材、恫喝も伴なった詐欺商法など、法律上の問題があり、また批判されるべきであるが、そのようなものがある前提で、人生を考えざるをえないだろう。
社会のルールは、各人の人生をそれぞれの人のものとするにしても、その調整が必要であり、生まれてくるものである。ルールとしては、法、道徳などいろいろなレベルがある。
土木作業員、清水祐一の行ないは、少なくとも法のレベルでは、しかるべき手続がとられることになる。
洋服店店員、馬込光代の純愛は、今日の時代、ひかれるものがある。しかし、純愛は、日常生活から切り離された形となりがちである。朝日を2人で見るシーンは、美しいが、はかない。
殺された保険外交員、石橋佳乃の父である理髪店店主が、チャラ男の増尾圭吾に怒りをぶちまけた後、店に帰り、妻と言葉をかわすシーンこそ、日常の純愛だろう。
このように見るのは、弁護士としての経験に毒されているからかもしれないが。
死んだらそれで終いと考えると、「我が亡き後に洪水よ来たれ」、「後は野となれ山となれ」と考える人も出てくるかもしれない。
しかし、自分の亡き後も社会は存在するだろうし、子孫、友人は生きていくだろうから、自分の亡き後はどうなってもかまわないと考えることは、非難されるだろう。
死んだら、自分は天国か地獄へ行くのだとか、極楽浄土へ行くのだとか、生まれ変わるのだとか、死後の自分の世界を考える人もいるだろう。これは、ある意味で、どこまでも自分を中心と考える生き方のように思う。
自分を中心に考える生き方は、批判されるだろうが、人間は究極に至れば、そうならざるをえないから、ただちに非難することはできないように思う。
しかし、死んだ後の世界は、現に生きているうちに考える想像の世界であって、客観的に確かめられたものではない。私は、現世志向であり、今をどうするかを考えたい。
読んだ本は古書店に売却する人が多くなったと思う。本は売りたくないという人でも、収納スペースがなくなれば処分するしかない。また、本人は売らなくとも、遺族は処分してしまうこともある。
私の方針は次のとおりだ。
1 自分以外の人にも読んでほしい本は区分して残す。
ただし、最初から最後まで読む必要はない。読んでほしい所に付箋をつけて、できればどこかでコメントしておこうと考えている。そうすることによって少しはガイドになることを望んでいる。全体を読まなければわからない本もあるかもしれないが、そこまで厳格である必要はない。
2 残された本について、私は全て読んでいるものではない。
残された本は、ある世界を感じさせてくれる本であり、その中を冒険してみたらどうかと考えている。本の内容に賛成しているものではない。
数十万円くらいまでの債務について、1500名ほどの債務者の対応を見ると、いろいろと気がつくことがある。
1番気がつかされたことは、人間の応対は、いろいろあるように見えても共通点があり、グループ分けできるということである。これは、あたり前のことにすぎないかもしれないが、1500名ほどの債務者と対応して実感したことである。企業家の眼からは、当然のことが、弁護士の立場として経験がなかったということだろう。
たとえば債務者の弁解も、いくつかのパターンになる。ここでは、具体的なパターンを記述しないが、いくつかのパターンから、その人柄もグループ化しようと思えばできてしまう。このようにしてでき上がる債務者のモデルは、自分の経験となるものと思う。
息子(娘)にまかせることができるということは、幸わせなことである。世間では、そうできないことも多く、それと比べたとき、息子(娘)にまかせることができるということは、なんと幸わせなことかと思う。
世の中には、息子(娘)にまかせることに抵抗感を示される人も多いが、私は、まかせることができるならば、幸わせを感じ、どしどしまかせていけば良いと思う。
息子(娘)にまかせると、自分が慣れ親しんできた物を捨てることにもなる。たとえば家の建替などがある。確かに、それはさみしさを伴う面もあるが、人生の先達(せんだつ)としては、どこかで決断すべきことのように思う。それは子孫を思えばできることのように思う。
このようなことを考えていると知れたら、子から、大いに嫌われるのだろうと思う。
しかし、自分の老後の安泰のためには必要だと考える人もいるだろうし、誰しも一度くらいは考えてみたことがあるのではないかと思う。
自分の人生を振り返ってみると、親から結婚について何か言われたことはないと思う。親の結婚の経緯を詳しく聞いたこともない。自分の人生(結婚)は自分で決めてきたという気がする・・・。
しかし、親の話を聞く中で、親の価値観を知る機会はときどきにあったと思われ、また、親の期待に沿えるところは、あえて逆の行ないをせず、素直に生きてきたので、どこかで誘導されてきた面もあると思う。
結局は、親の立場からすれば、親のねらいをどのように表現するかという問題のように思われる。子は親の影響を必ず受けるものと思われ、それが「血は争えない」ということのようにも思う。