親族の付き合い

 槇原稔さんの日本経済新聞の「私の履歴書」に次の記述があった。

 「当時岩崎一族には私とほぼ同じ年ごろの子供たちが15人前後いた。三菱創業者の岩崎彌太郎から数えて第4世代にあたる兄弟やいとこたちだ。彼らは週末になると湯島の岩崎本邸に集まり、仲良く遊んだ。父の死後、その集まりに私も招かれるようになり、楽しい時間をともにした。」

 岩崎彌太郎から数えて第4世代にあたる兄弟やいとこたちが、週末になると湯島の岩崎本邸に集まり、仲良く遊んだというのは、驚くべきことだと思う。
 当時の日本は、これがよくあったことなのか知らないが、現代の日本で考えると驚異的なことである。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年11月02日 | Permalink

ファミリーをどこで感ずるか

 家族は、子供が幼少のときから、独立するときまで、色々な段階がある。したがって、いつも一緒というわけにはいかなくなる。一緒にいるという団欒のみに価値を置くのではなく、家族のいる場所が別だとしても一体として感じられることを考えるべきだろう。

 それでは、家族が一体であることを感じるのはどのような時だろうか。
 各人が自分の役割を理解し、それを果たすことにより、全体として機能していることを実感することが必要だろう。その場合、何かの苦難があり、それに向けて家族が団結している場合もあるだろうが、そうした対象がはっきりしない場合もある。外に苦難があればまとまりやすいだろうが、そうでない場合が難しい。
 しかし、あえて外に苦難を見出す必要はなく、平常時こそ家族の豊かさを実感すべきだろう。
 家族の一員が自分の道を歩み始めることは、家族が新しい段階に入ったことであり、それだけでも豊かさと言って良いだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年10月27日 | Permalink

データベース上に日記を書く。

 現在、ブログをを持っている人は多くなったが、全体から見れば少数だろう。日記を書く人も、たぶん少数だろう。
 しかし、検索できる環境で(データベース上で)日記を書くことは、大きな意味があると思う。時間を超えて自分を見直すことになる。また、第三者にも役立つものとなるだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年10月19日 | Permalink

蔵書のある人へ

 本は意外にかさばる。
 出版された年代により、活字の大きさも変化していて読みやすさも異なる。
 著者の記述方法も、使う言葉、文章の長さ、論理展開の息の長さなど、年代によりずい分異なる。
 自分の亡き後、本はどのようにされるかといつも考える。自分と同じように残された本を読んでほしいと思っても、それは無理な話だろう。新しい本は次々と出版され、現代を論じているし、古典と言われる本も、どこまで現代に通用するのだろうかと思うときがある。
 自分が読み、次世代の人にここは目を通してほしいと思う個所があったならば、せめて付箋をつけ、何かメモすることが1つの方法だろうと思う。
 本を処分できない人も多いと思うが、次世代のことを考えて、残すものを選択する必要もあると思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年10月05日 | Permalink

浄土

 浄土にもいろいろあることを知らなかった。

 釈迦如来の霊鷲山浄土(りょうじゅせんじょうど)。

 阿弥陀如来の極楽浄土(ごくらくじょうど)(西方)。

 弥勒菩薩の兜率天浄土(とそつてんじょうど)(北方)

 薬師如来の瑠璃光浄土(るりこうじょうど)(東方)

 観音菩薩の補陀洛浄土(ふだらくじょうど)(南方)

 8世紀初頭の法隆寺金堂壁画には、釈迦、阿弥陀、弥勒、薬師の四方仏の浄土が描かれているそうだ。
 しかし、浄土のイメージは、それを膨らませようとしても限界があるとの話があり、私も同感である。
 これに対して、浄土の対極にある六道の世界は、イメージを膨らませることができる。
 浄土は、すごろくのゴール(到着点)のような世界があり、そこでの生活(?)は、あまり意識されてこなかったようにも思う。
 浄土は、北極星のような方位を知るための指標に過ぎないのかもしれない。
 「恐れるもの」について、考えようと、別の所で述べたが、「恐れるもの」の対極にある浄土についても考えるべきだろうと思い、記述した。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年09月28日 | Permalink

この世の地獄

 人は、「地獄草子」や「六道絵」に描かれたような世界は空想のものだと思うかもしれない。
 しかし、この世の地獄という言葉もある。死後の世界はイマジネーションの世界であり、あるともないとも誰も確かなことは言えないだろうが、現実に自分の近くで多くの不幸が起こっている。
 不幸がなぜ起こるのかは、一概に言えないだろうが、何らかの因果の法則の上で起こるとは言えるのではないか。
 前世の因果で関係するかどうかは全く不明であるし、「親の因果が子に報い」という言葉を乱用することはできないだろうが、少なくとも自分の行いが自分に影響するとは言えるのではないか。
 自分の行為が原因で、何らかの不幸が起こっていて、この世の地獄ともいえる状況だとすれば、恐れるべきことだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年09月27日 | Permalink

恐れるもの

 平安時代、年末に仏の名を唱えて1年の罪過を払う「仏名会」と呼ばれる仏事が行われたとされる。その際、出席者(僧侶・貴族)の正面に仏の世界が置かれたが、同時に出席者の後ろに地獄絵の屏風が置かれたとされる。
 地獄という世界があることが明確に意識されていたと言えるだろう。
 平安時代末期には、地獄や餓鬼を主体とした絵巻である「地獄草子」、「餓鬼草子」が制作されている。
 平安時代中期、天台僧である源信が「往生要集」を著しているが、その最初には、厭離穢土(おんりえど)として、諸経典から抜粋した厭うべき六道の様が記されている。
 六道は、浄土の対極にある世界であり、死後、輪廻転生する地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天の6つの世界である。
 ここではあまり立ち入ったことは省くことにするが、昔の人は、恐れるものがあったと感ずる。
これに対して、現代に生きる多くの人は、昔の人のような死後の世界観はないと言っていいだろう。
 しかし、恐れるものがないというのは、不幸なことのように思う。「恐れるもの」に相当する何かが明確に意識されなければならない。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年09月26日 | Permalink

富豪と世捨て

 日本経済新聞2009年9月6日に、島田雅彦氏の「富豪と世捨て」が掲載されていた。
(この記事を巡っては、何人かの人がインターネット上に感想を述べておられる。)

 「ヒトが一生を通じて味わえる快楽の分量も決まっていて、金持ちがより多くの快楽を味わえるというものでもない。快楽は金で買うものというより、脳で作り出すものだからだ。誰しも左右一対の脳を持つ。それを使うのに金は要らない。」という点は、同意できる。

 しかし、富や富豪のイメージは、画一的で、浅いのではないかと感ずる。

 「資本主義の覇者は資本主義によって滅びた物を復活させ、その罪を償う義務がある。罪滅ぼしにこそ金を使え。」との点は、「富豪になるにはかなり利己的に、他人を蹴落としたり、人倫にもとることもしてきただろうが、十分な財産を蓄えたら、あとは世のため人のためにそれを使い、魂の平安を得るのが無難だ。」との点を前提とした記述なのだろう。しかし、この記述が当てはまるケースもあるとは思うが、多数ではないだろう。
 私は、富(マネー)は、一つのパワーではあると思うが、脳(考え方)も、それ以上のパワーであると考えている。こうしたパワーを、人に迷惑をかけず、自分なりに使うことは人それぞれであると思う。

 「その価値を理解しようがすまいが、富豪たちが投資目的で美術品を買いあさった時代があった。その流れで現代美術のゴミが高値取引されたけれども、田舎の野山を歩けば、そんなものよりはるかに高い価値を持つ石や木がいくらでもある。」との点も、正確な理解に基づく記述とは思えない。
 ゴミである現代美術もあるのかもしれないが、現代美術をいくらで買うかは自由であるだろうし、人それぞれである。私は現代美術がわかったとは思っていないが、作家が作り出した世界は十分に理解されるべきだと思っている。
 富や富豪のイメージを、もっと深めていく必要があると、改めて感じた次第だ。 




投稿者名 管理者 投稿日時 2009年09月14日 | Permalink

自分に活力を与えてくれる使命

 ユングは、有名になるにつれて、神経症らしき徴候もないのにやってくる人も増えて、自らの人生に意義や目的を見いだせないでいる人たちの診断も行なうようになったという。
 ユングは、こういう人たちに最も関心をもった。
 その人たちは、世間の因習を拒否してでも自分自身の道を見つけだそうという性格を備えた、数少ない人たちであった。ユングは、「自然は排他的であって、優れた人間の価値は十人の劣った人間の価値よりも優る。」とし、こういう人たちこそ文化を担っている人たちだ、彼らが目標を達成するのを支援することこそ、自分に活力を与えてくれる使命だと考えた(『天才はいかにうつをてなずけたか』アンソニー・ストー著 278頁)。
 
 マスコミが聞いたら袋だたきにしそうなユングの考え方であるが、参考になると思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年09月08日 | Permalink

自宅の作り方

 自宅の作り方は、その人の価値観がよく表われるところだと思う。自宅を作って(持って)から価値観が大きく変化することはあるから、その人の自宅が、いつまでもその人を表わしているとは言えないだろうが、その人の歴史の1部であることは確かだ。
 
 自宅は、どれだけ工夫し、よく考えたとしても、将来は合わなくなってくるものだと思う。
 大きな自宅を作る場合、いつまで自分、配偶者、子が使うのかをよく考えるべきだろう。自分の寿命によっては、早急に、残された人にとって使いにくいものになってしまう可能性がある。
 投資効率を考える人ならば、なおさら、どれくらいの家にするのが良いか考えてしまうだろう。
 旅に出ることが多い人にとっても、どのような家が便利か考えるところがあるだろう。

 結論を言えば、普通の人が普通に使う家(ないしは、それより少しだけ余裕のある家)に住むのが合理的だと思う。
 その方が、次の世代にとって処分もしやすくいだろうし、人にも貸しやすい。


投稿者名 管理者 投稿日時 2009年08月31日 | Permalink