ファミリーの歴史の編纂

人生の後半になったら、自分の歴史を含めて、ファミリーの歴史を編纂してほしいと思う。

自分の歴史資料は、余分なものまで残してしまうし、逆に、自分以外のファミリーの資料は、なかなか集められないが、ある物は捨てられない。
しかし、このような傾向があることを踏まえ、大胆に、取捨選択してほしい。

時間の経過とともに、何が残すべき資料か、判明すると思う。時間の経過の中で、徐々に判断してほしいと考えている。


投稿者名 管理者 投稿日時 2008年08月28日 | Permalink

事業戦略

 弁護士は、職人であって、自分で聞きとり、調べ、文書化して裁判手続などの業務を行なっている。そのような業務方法をとっていない弁護士もいるだろうが、少なくとも弁護士としてのスタートは、職人だったと思う。したがって、努力の意味を自分の体で把握している。
 しかし、いろいろな企業の相談を受け、取締役会や種々の会議に参加し、企業の様子を見ていると、日常の業務とは別の判断業務があることに気がつく。これは、弁護士だけでなく、職人であった人がどこかで気がづく問題なのだと思う。
 この日常業務とは別の判断業務が事業戦略なのだと思う(戦略と戦術の違いとか、いろいろあるかもしれないが、ここではあまりむつかしくとり上げていない)。
 世の中では「額(ひたい)に汗する」ことを尊ぶところがあるが、日常業務に忙殺されているときは、事業戦略を考えなければいけない時期なのだろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2008年08月18日 | Permalink

金融機関との付き合い方

 経営発表会として、何社(行)かの金融機関に集まってもらい、経営者が会社の状況を説明し、今後の見通しや決意について語ることは有効だと感ずる。
 ただし、金融機関だけが集まると、互いに牽制があるため、固い雰囲気になるようである。銘酒の飲み較べ会のような楽しい状況を作ったりして工夫している会社もある。
 どのようなやり方を選ぶかは、各経営者の個性により、自分の得意なやり方で良いと思うが、継続して経営発表会を行なうことが大事である。


投稿者名 管理者 投稿日時 2008年08月04日 | Permalink

学校の選択

 我が家では、中学受験、大学受験を経験した。
 幼稚園から始まって小学校、中学校、高校、大学、大学院と受験の連続である。難関の学校への入学実績が大きな判断材料となっているようである。もちろん、そうでない基準で学校を選んでいる人もいるだろう。
 しかし、自分自身や子の受験を通じて感じるのは、学校を選ぶのは本人(子)であるという点である。
親が子を、その気にさせたならば、子は自らの意思として進むのかもしれないが、どんな形であれ、出願するのは本人である。
 幼稚園や小学校は、親が決めるしかないではないかと言われるかもしれない。確かに子にとって良い環境を考えられるのは、幼稚園や小学校では親かもしれないが、それでも本人の自覚は重要だろう。
 今でもよく覚えているが、私が幼稚園に初めて行ったとき、近所の子と一緒に、タクシーか誰かの車で出かけた。幼稚園バスではなく、最初は、親と一緒に行ったのである。そのとき、これから「勉強」というものをするのだと随分緊張っして行ったことを覚えている。すぐに「勉強」などというものはないことが分かり、問題児として自由に振舞ったのであるが、最初は、幼稚園という新しい場所について、すごく自覚していたのだから不思議である。
 学校は、本人が選んだのであれば、納得するであろう。


投稿者名 管理者 投稿日時 2008年08月01日 | Permalink

子弟の就業先

 親が自分の子弟を自分の会社に入れる前に、修行として、どこか別の会社に入れることがある。
 こうした場合、自分の子弟を預かってもらう先としては、どんなところが良いのだろうか。
 自分の会社の業界について勉強させるために、同業で、それなりの規模・組織があり、学ぶべきところがある会社を考えることが多いのではないだろうか。
 この場合、子弟が入社した会社の周囲の人たちが、その子弟をどのように扱うかは注意した方が良いところがある。普通の人と同等に厳しく接するよりも、お客さん扱いで甘やかすことがあるようにも聞く。自分(親)と入社させる会社の経営者とが十分に理解し合っている場合でも、いつもその経営者が子弟を見ていられるものではないから、どうしても先輩、同輩の人たちとの関係の中で甘えが出るようである。
 甘えの中で仕事をして、それがあたり前になってしまうことは、その子弟にとって不幸である。


投稿者名 管理者 投稿日時 2008年07月30日 | Permalink

投資と消費

 スリーサークル・モデルの1つの視点である「ファミリー」の視点からは、生活の維持や楽しみが重視され、消費という方向へ進みがちである。
 しかし、もう1つの視点である「経営」の視点からは、投資効率を重視することになり、どこまでも投資を考えていくことになる。
 スリーサークル・モデルの「オーナーシップ」の考え方が、この対立を調整することとなるだろう。
 一般に、創業者世代は、投資を追及し、ビジネスの成長を第1に考えるだろう。そこでのオーナーシップは、未来に向けた基盤づくりであり、その所有である。ここでは、未来をどのようにしたいのかが問われるところであるが、意外に漠然としていることも多いかもしれない。
 ところが、第2世代になってくると、創業者の苦労を見ている場合、その考え方への共鳴はあるものの、お金は使ってこそ活きるという考え方が出てくるだろう。
 さらに、第3世代以降になってくると、お金の使い方(消費)へと進んでいくことになる。そこでは、所有し、収益を再投資するのではなく、収益からの配当を求めることになる。
 オーナーシップは、日本語では、所有(権)と記されるが、投資と消費のバランスを誰がどのようにとるのかが明確にされなければならない。


投稿者名 管理者 投稿日時 2008年07月28日 | Permalink

ファミリーの歴史をいかに記録に残すか。

 「若いうちは、自分の歴史などまとめなくても良いから、もっと前に進め。」と自分に言いきかせてやってきた。
 確かに、若いうちは、自分の可能性も未知であるし、自分の果たすべき役割もわかっていない。自分の関心もどんどん変化する。
 したがって、自分の歴史をまとめてみても、見当違いとなることが多いだろう。
 しかし、年齢を重ねるにしたがって、自分はまず何を果たすべきかを選択し、それに集中しなければいけなくなると、そのために自分の歴史をふりかえってみることは悪くないと思う。
 さらに、自分の人生だけでなくファミリー全体の歴史を考えると、自分にしか記録できないことも多いことに気づく。老親がいるならば、少なくともいろいろと尋ね、記録しておくことは必要だと思う。


投稿者名 管理者 投稿日時 2008年07月24日 | Permalink

数値による判断

 「数値による判断」と言うと、「それは得意だね。」というタイプの人と「定性的な分析は好きだけど、定量的な判断はどうも・・・」というタイプの人に分けられるだろう。
 特に、数値に現しにくいところが重要であるという考え方の人も多く、「正確に間違えるか、大雑把に合っているか」の違いととらえる人もいる。
 しかし、数値が全てと言うつもりはないが、数値によって判断することは重要であると考えている。自分の感覚・直観と数値の間に微妙なずれがある場合、原因を考えることは最低限必要である。
 いつも自分の感覚・直観と数値を比較していると、「この現象は自分だけの判断のものである」と考えていたところが、「実は、世の中でも同様に起きているのだ」と気がつくことがある。先見性は、こんなところから生まれるのではないかと考えている。


投稿者名 管理者 投稿日時 2008年07月22日 | Permalink

自分の親(または子)との対立

 自分の親(または子)との間で裁判になることは、少なくない。裁判になると、一般的に証拠として文書が重要視される。ところが、親子間では約束があっても文書化していないことが多く、明確な判断が出しにくく、立証ができていないとして結論が出されてしまうことも多い。
 しかし親子間では、通常、文書化までしていないことが一般的なのだから、立証責任の一般論で結論が出されることに異議が出されることも多い。理屈ではわかっても、感情的には割り切れないことも多いだろう。
 親子間の裁判を見てきた立場から言えることは、親子だからわかりあえるはずだというような希望をもつのではなく、どこまでも客観的な記録を残すという道を進むか、紛争にならないように、どちらかがどこまでも譲るという道を進むか、割り切りが必要だと思われる。


投稿者名 管理者 投稿日時 2008年07月16日 | Permalink

「まず街灯の下を探せ」

野口悠紀雄教授が、野口悠紀雄Onlineで次のような記述をされていた。(少し長いけれども引用させていただきます。)

暗い夜道を歩いていて、鍵を落としたことに気づいたとする。どこを探せばよいか ?

物理学者のアドバイスは、「まず街灯の下を探せ」ということだ。これを聞いて、あなたはどう思うだろう ?

「とんでもない。落としたのが街灯の下とは限らない。だから、そこを探したところで、見つかる保証はない。歩き始めた場所に戻って、手探りで探すしかない」と反論する人が多いのではなかろうか ?

鍵が街灯の下に落ちている保証はない。確かにそのとおりだ。しかし、仮に落としたのが暗い場所であったとしても、そこから鍵を探し出すのは、難しい。他方で、光があたっている場所に落ちていれば、すぐわかる。だから、まず明るい場所を、つまり見つけるのが容易な場所を探せ、というのである。暗い場所の探索に乗り出すのは、街灯の下には鍵がないと確認できてからにすべきだ。

物理学者のこうしたアドバイスは、決して詭弁ではない。また、楽をして成果を得たいという怠惰の現われでもない。それは、彼らが経験から学んだ知恵なのである。物理学がこれまで多大の成果を収めてきたのは、「街灯の下原則」に忠実に従ってきたからだ。

新しい現象を説明する必要に直面したとき、物理学者は、新しい理論体系を作るのでなく、古い理論体系をどこまで残せるか、と考えてきた。物理学を大転換させたと一般には考えられているアインシュタインの相対性理論でさえそうである。確かに彼は、「絶対時間」というニュートン以来の基本的な仮定を捨てた。しかし、それ以外の基本的原理を残すためには、そうせざるをえなかったのである。

この意味で、物理学者ほど保守的な人種はいない。しかし、物理学ほど華々しい成果を挙げた学問もないのである。

引用以上

これは、ビジネスにこそ通用する指摘であると思う。

自分の必勝パターンがあって、それに持ち込むことを考えている方は、多いのではないかと思うが、それに通じるところがある。

企業家を、「馬鹿の一つ覚え」と揶揄した話を聞いたことがあるが、私は、繰り返しの強みを存分に見せ付けられている。
全てを遺漏なくとらえようとして、いろいろ考えたり、行なってみることが必要な場合もあるだろうが、意外に、探しやすいところに、ころがっているものである。


投稿者名 管理者 投稿日時 2008年07月14日 | Permalink