AIが文章にまとめるシステム(チャットGPT)
AIが文章にまとめるシステムが話題になっているが、その対話式で表現される文章を読まされるのには、うんざりするのではないかと思う。
AIの特徴は、ネット上にある情報を網羅的に拾い出すことは得意だろう。したがって、自分の思考の欠如している部分をチェックすることには役立つだろうと思われる。しかし、その網羅性は、どうでもいいことが多く含まれているだろうと思われる。
AIが、このどうでもいいことをいかに削除してくれるかには関心がある。
AIが文章にまとめるシステムが話題になっているが、その対話式で表現される文章を読まされるのには、うんざりするのではないかと思う。
AIの特徴は、ネット上にある情報を網羅的に拾い出すことは得意だろう。したがって、自分の思考の欠如している部分をチェックすることには役立つだろうと思われる。しかし、その網羅性は、どうでもいいことが多く含まれているだろうと思われる。
AIが、このどうでもいいことをいかに削除してくれるかには関心がある。
AIと 人のどちらが よい句かな という記事があった。2022/11/3中日新聞
俳人作とAI作とが、ほぼ同じ評価だった。
これは俳句の世界にとって衝撃的なことだと思われる。
これまでの俳句の世界そのものが本当に深いものであったのか、単にシンプルであったに過ぎないのかが問われている。
議論を、勝ち負けでとらえる人がいる。
議論の結果、出される結論が自分に得になるかそうでないか影響する場合、やむを得ないこともあるだろう。
しかし、そうでない場合まで、自分の言っていることにこだわる人が多いように思う。
議論は、自分にとって有効な事柄を得るためになされるものと考える必要がある。
自分が主張したことについて、そうではない事柄が出てきたとき、柔軟に対応する必要がある。議論の勝ち負けではなく、議論の結果を自分にとって有効に利用することを考えるべきだ。
ワープロを使えば、読めるけれども自分ではちょっと書けない漢字が使える。
しかし、私自身を振り返ってみると、自分では書けない漢字を使うことは、何かはばかられるものがあった。
「はばかる」と言う漢字(憚る) も、自分だけではすぐに書けない場合、ひらがなにしておく。
機械を使えば、自分の能力を拡張できる場合、それにどう対応するかは、人それぞれかもしれない。
文章は、あくまで自分で手で書くことができるものという認識を持つ場合、ワープロで変換されるからといって漢字をどしどし使うことはしない。
しかし、機械の支援がある場合、それはどしどし使うべきだという考え方は成り立ち得るし、それが望ましいやり方かもしれない。
いろいろな会社や組織では、会報誌を定期的に配布している。
しかし、紙ベースで配布される資料は、簡単に検索できない。
また、印刷や配送のコストがかかる。
こうした資料についても、これからの時代に合った形に見直していく必要があるだろう。
ある保険の申請をしたところ、その保険で利用される用紙で診断書を書くことを求められた。
診断といっても、死亡のケースであり、死亡診断書は既に作成されているのに、専用の用紙での診断書が求められた。このこと自体が、極めて非効率であると思われる。
そして、死亡診断書は既に作成されているのに、専用の用紙での診断書を作成してもらうのに、医師の側では、2週間から4週間かかるという。いろいろな事情があるのかもしれないが、これほどの時間が必要であることは、これからの時代では通用しないのではないだろうか。
世間では、ものは少ない方が良いという発信が強いように思われる。
確かに、自分の空間をすっきりさせることの意味はあると思われる。
そのような中で、情報を紙ベースで持つことは、意味があるのだろうか?
電子化できるものは、全て電子の中で処理するべきだという考え方は、強いだろう。
情報を紙ベースに置くことで「もの」となる。
ものは、人間が体で触れることができ、そのことにより頭の中だけの作用に限定するよりも、効果的な使い方ができる場合があると思う。
ものを持とうとすると、それを収めるスペースが必要となってくる。スペースを持つ費用を考えると、できる限りものを持たない生き方は有効に思える。
しかし、ウェブ空間のみで十分に創造的な作業ができるのかという問題はよく考えるべきだ。
自分自身を考えても、本を収める棚以外に、9本の棚を利用している。
この棚に収めるものは、先祖から伝わるものであったり、自分が集めたものだ。
こうしたものを収めるスペースを持つことは、振り返ると有効であったと考えている。
こうしたスペースを十分に持っていたことで、ものを簡単に捨てられなかったというマイナスも確かにあるが、ものを集積することによって気がつくことも多く、その効果は大きいと考えている。
コロナ禍は、自分の人生の中でこのような事態に遭遇するとは考えておらず、驚きました。しかし、1722年にイギリスで出版された記録文学である「ペスト」を読むと、人間の対応はあまり変わっていないとも感じられ、落ち着いてとらえる必要があると考えています。
コロナ禍の影響で、いろいろなことが生じました。 マスクの着用、Web会議(交通機関の利用の減少)、持続化給付金などの各種支援金(税金の投入)が私にとっては大きな変化でした。この変化は今年も続きます。65歳になる今年は何らかの区切りの年だと考えていましたが、状況をよく観察することが必要だと感じています。
2021年 元旦
学校の授業は、古文の場合、古語にこだわりすぎていると思う。漢文の場合も、読み下しに力点が行き過ぎている。
現代語訳でよいので、もっと古典の全体を読むべきだ。そうすることにより、古典から得るものは多いと思う。
古典の一部分を、古語の意味や品詞の分解に気をとられて読むのは、結果的に、全体を読むことができなくなり、興味を失うのではないかと思う。こうした読み方は、もっと専門化した立場の人でよい。
全体を読むことにより、作者の根本の考え方をとらえた方が、身につき、役立てることができる。日本の文献であれば、日本の根本を知覚することもできるだろう。漢文であれば、当時の中国の考え方も理解できる。
お経も、本来、内容を理解するべきだと思う。声による響きを味わっても良いが、内容を理解してからだろう。
西洋では、宗教改革で聖書についてドイツ語訳が行なわれたように、日本でも、現代語訳が行なわれる必要がある。