人生には、いろいろな隙間がある。
仕事でも遊びでも家庭でも、活発に動いていると、いろいろな場面に出くわし、驚いたり、賞賛したり、嘆いたりする。これは、自分とは違った面(世界)に出会ったからだ。自分とは違った面(世界)が、自分の外にあると感じるときもあるだろうが、それが自分の中にあると感じるときも多い。
こうした経験を重ねると、自分の人生を完璧に理解していたつもりでも、実は分からない部分・知らない部分があることに気づく。
自分が理解しているポイントを集め、それで組み立てただけでは、実際の人生にはならない。人生は、そのようなスカスカしたものではない。表現の仕方が良いか分からないが、人生は、もっと詰まっている。重さがある。密度がある。
人生の分からない部分・知らない部分は、隙間のようにある。何もない隙間ではなく、何かある隙間。
こうした隙間を見つけることは楽しいことだ。それは、自分しか見つけられない。隙間に入ってみると、自分が小さくなって、隙間が巨大な空間になったりする。
こうした体験を具体的に語るのは、プライベート過ぎて、はばかられるが、例えば次のとおり。
信楽焼を見に行ったところ、「やきもの たぬきのルーツ図録」が300円で売られていた。信楽焼のいろいろなたぬきを見て回り、家に帰ってから、これを読んだ。
茶道の世界で、「掛け軸に描かれたタヌキの絵を見て談笑したり、或いはたぬきのやきものを茶道具の一つに取り入れていったように考えられる。」とあった。そして、その後、やきものとして展開されていく。
やきものとしてのたぬきについては、これまであまり意識して見てこなかったが、ぶたの置物を集めている自分の体験と合わせると、たぬきとぶたの違いから来る差異もあるが、しかし、根本で同じところを感じる。
ぶたの置物を通じて、何となく感じていたそれを作った人の気持ちと響きあう。たぬきとぶたが響きあうだけでなく、それぞれを作った多くの人同士も、また、自分とも響きあう。